・・・それが、僕をして、兄を尊敬さすのに十分だった。虹吉は、健康に、団栗林の中の一本の黒松のように、すく/\と生い育っていた。彼は、一人前の男となっていた。 村には娘達がS町やK市へ吸い取られるように、次々に家を出て、丁度いゝ年恰好の女は二三・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・で、自然と同窓生もこの人を仲間はずれにはしながらも内は尊敬するようになって、甚だしい茶目吉一、二人のほかは、無言の同情を寄せるに吝ではなかった。 ところが晩成先生は、多年の勤苦が酬いられて前途の平坦光明が望見せらるるようになった気の弛み・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・されど、これはただその親愛し、尊敬し、もしくは信頼していた人をうしなった生存者にとって、いたましく、かなしいだけである。三魂・六魂一空に帰し、感覚も記憶もただちに消滅しさるべき死者その人にとっては、なんのいたみもかなしみも、あるべきはずはな・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・妻として尊敬された無事な月日よりも、苦い嫉妬を味わせられた切ない月日の方に、より多く旦那のことを思出すとは。おげんはそんな夫婦の間の不思議な結びつきを考えて悩ましく思った。婆やが来てそこへ寝床を敷いてくれる頃には、深い秋雨の戸の外を通り過ぎ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・なんのことはない、長兄の尊敬しているイプセン先生の顔である。長兄の想像力は、このように他愛がない。やはり、蛇足の感があった。 これで物語が、すんだのであるが、すんだ、とたんに、また、かれらは、一層すごく、退屈した。ひとつの、ささやかな興・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・シェークスピアを尊敬してゲーテをそれほどに思わないらしい。ドストエフスキー、セルバンテス、ホーマー、ストリンドベルヒ、ゴットフリード・ケラー*、こんな名前が好きな方の側に、ゾラやイブセンなどが好かない方の側に挙げられている。この名簿も色々の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・この話はつくりごとでないから本名で書くが、その少年の名は林茂といった心の温かい少年で、私はいまでも尊敬している。家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・これに依って、わたくしは栄子が遊廓に接近した陋巷に生れ育った事を知り、また廓内の女たちがその周囲のものから一種の尊敬を以て見られていた江戸時代からの古い伝統が、昭和十三、四年のその日までまだ滅びずに残っていた事を確めた。意外の発見である。殆・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・かほどに多くの学生から尊敬される先生は、日本の学生に対して終始渝らざる興味を抱いて、十八年の長い間哲学の講義を続けている。先生が疾くに索寞たる日本を去るべくして、いまだに去らないのは、実にこの愛すべき学生あるがためである。 京都の深田教・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・特に数学に入るか哲学に入るかは、私には決し難い問題であった。尊敬していた或先生からは、数学に入るように勧められた。哲学には論理的能力のみならず、詩人的想像力が必要である、そういう能力があるか否かは分らないといわれるのである。理においてはいか・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
出典:青空文庫