・・・が、叔母はそれは敷かずに、机の側へ腰を据えると、さも大事件でも起ったように、小さな声で話し出した。「私は少しお前に相談があるんだがね。」 洋一は胸がどきりとした。「お母さんがどうかしたの?」「いいえ、お母さんの事じゃないんだ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ちゃぷりちゃぷりと小さな波が波打際でくだけるのではなく、少し沖の方に細長い小山のような波が出来て、それが陸の方を向いて段々押寄せて来ると、やがてその小山のてっぺんが尖って来て、ざぶりと大きな音をたてて一度に崩れかかるのです。そうすると暫らく・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 隔の襖は裏表、両方の肩で圧されて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、淋しく顔を見合せた、トタンに跫音、続いて跫音、夫人は衝と退いて小さな咳。 さそくに後を犇と閉め、立花は掌に据えて、瞳を寄せると、軽く捻った懐紙、二隅へはた・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・夫婦ふたりの手で七、八人の子どもをかかえ、僕が棹を取り妻が舵を取るという小さな舟で世渡りをするのだ。これで妻子が生命の大部分といった言葉の意味だけはわかるであろうが、かくのごとき境遇から起こってくるときどきのできごととその事実は、君のような・・・ 伊藤左千夫 「去年」
震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって惜まれる小さな遺跡や建物がある。淡島寒月の向島の旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして旧廬の再興を志ざしているが、再興されても先代の椿岳の手沢の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ さよ子は、家の中がにぎやかで、春のような気持ちがしましたから、どんなようすであろうと思って、その窓の際に寄り添って、そこにあった石を踏み台にして、その上に小さな体を支えて中をのぞいてみました。 へやの中はきれいに飾ってあります。大・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・めいめいに小さな飯鉢を控えて、味噌汁は一杯ずつ上さんに盛ってもらっている。上さんは裾を高々と端折揚げて一致した衆評であった。 私は始終を見ていて異様に感じた。七 女房を奪われながらも、万年屋は目と鼻の間の三州屋に宿を取っ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・そして下大和橋のたもとの、落ちこんだように軒の低い小さな家では三色ういろを売っていて、その向いの蒲鉾屋では、売れ残りの白い半平が水に浮いていた。猪の肉を売る店では猪がさかさまにぶら下っている。昆布屋の前を通る時、塩昆布を煮るらしい匂いがプン・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・と思うと、彼の頭にも、そうした幻影が悲しいものに描かれて、彼は小さな二女ひとり伴れて帰ったきり音沙汰の無い彼の妻を、憎い女だと思わずにいられなかった。「併し、要するに、皆な自分の腑甲斐ない処から来たのだ。彼女は女だ。そしてまた、自分が嬶・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・私は新聞かなにかを見ながら、ちらちらその方を眺めていたのであるが、アッと驚きの小さな声をあげた。彼女は、なんと! 猫の手で顔へ白粉を塗っているのである。私はゾッとした。しかし、なおよく見ていると、それは一種の化粧道具で、ただそれを猫と同じよ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
出典:青空文庫