・・・その枝に半ば遮られた、埃だらけの硝子窓の中にはずんぐりした小倉服の青年が一人、事務を執っているのが見えました。「あれですよ。半之丞の子と言うのは。」「な」の字さんもわたしも足を止めながら、思わず窓の中を覗きこみました。その青年が片頬・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・それを、茶の小倉の袴が、せっせと折目をつけては、行儀よく積み上げている。向こうのすみでは、原君や小野君が机の上に塩せんべいの袋をひろげてせっせと数を勘定している。 依田君もそのかたわらで、大きな餡パンの袋をあけてせっせと「ええ五つ、十う・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・ などと間伸のした、しかも際立って耳につく東京の調子で行る、……その本人は、受取口から見た処、二十四、五の青年で、羽織は着ずに、小倉の袴で、久留米らしい絣の袷、白い襯衣を手首で留めた、肥った腕の、肩の辺まで捲手で何とも以て忙しそうな、そ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ その職員室真中の大卓子、向側の椅子に凭った先生は、縞の布子、小倉の袴、羽織は袖に白墨摺のあるのを背後の壁に遣放しに更紗の裏を捩ってぶらり。髪の薄い天窓を真俯向けにして、土瓶やら、茶碗やら、解かけた風呂敷包、混雑に職員のが散ばったが、そ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 胡桃の根附を、紺小倉のくたびれた帯へ挟んで、踞んで掌を合せたので、旅客も引入れられたように、夏帽を取って立直った。「所縁にも、無縁にも、お爺さん、少し墓らしい形の見えるのは、近間では、これ一つじゃあないか――それに、近い頃、参詣が・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 私が鴎外と最も親しくしたのは小倉赴任前の古い時代であった。近時は鴎外とも疎縁となって、折々の会合で同席する位に過ぎなかったが、それでも憶出せば限りない追懐がある。平生往来しない仲でも、僅か二年か三年に一遍ぐらいしか会わないでも、昔・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・寺田は何か後味が悪く、やがて競馬が小倉に移ると、1の番号をもう一度追いたい気持にかられて九州へ発った。汽車の中で小倉の宿は満員らしいと聴いたので、別府の温泉宿に泊り、そこから毎朝一番の汽車で小倉通いをすることにした。夜、宿へつくとくたくたに・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・その次には小倉百人一首を一首宛思い出してはそれの意味を考える。そして最後には考え得られる限りの残虐な自殺の方法を空想し、その積み重ねによって眠りを誘おうとする。がらんとした溪間の旅館の一室で。天井に彼らの貼りついている、死んだように凝っと貼・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・その日、私は馬場との約束どおり、午後の四時頃、上野公園の菊ちゃんの甘酒屋を訪れたのであるが、馬場は紺飛白の単衣に小倉の袴という維新風俗で赤毛氈の縁台に腰かけて私を待っていた。馬場の足もとに、真赤な麻の葉模様の帯をしめ白い花の簪をつけた菊ちゃ・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 着物は何処かの小使のお古らしい小倉の上衣に、渋色染の股引は囚徒のかと思われる。一体に無口らしいが通りがかりの漁師などが声をかけて行くと、オーと重い濁った返事をする。貧苦に沈んだ暗い声ではなくて勢いのある猛獣の吼声のようである。いつも恐・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫