・・・十月小春の日の光のどかに照り、小気味よい風がそよそよと吹く。もし萱原のほうへ下りてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく隠れてしまって、小さな谷の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間に隠れていたのを発見する。水は清く澄んで・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ねと撃て放せと向けたる筒口俊雄はこのごろ喫み覚えた煙草の煙に紛らかしにっこりと受けたまま返辞なければ往復端書も駄目のことと同伴の男はもどかしがりさてこの土地の奇麗のと言えば、あるある島田には間があれど小春は尤物介添えは大吉婆呼びにやれと命ず・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
千鳥の話は馬喰の娘のお長で始まる。小春の日の夕方、蒼ざめたお長は軒下へ蓆を敷いてしょんぼりと坐っている。干し列べた平茎には、もはや糸筋ほどの日影もささぬ。洋服で丘を上ってきたのは自分である。お長は例の泣きだしそうな目もとで・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 留置場で五六日を過して、或る日の真昼、俺はその留置場の窓から脊のびして外を覗くと、中庭は小春の日ざしを一杯に受けて、窓ちかくの三本の梨の木はいずれもほつほつと花をひらき、そのしたで巡査が二三十人して教練をやらされていた。わかい巡査・・・ 太宰治 「葉」
・・・眼瞼に蔽いかかって来る氷袋を直しながら、障子のガラス越しに小春の空を見る。透明な光は天地に充ちてそよとの風もない。門の垣根の外には近所の子供が二、三人集まって、声高に何か云っているが、その声が遠くのように聞える。枕につけた片方の耳の奧では、・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・電車の窓越しに人の頸筋を撫でる小春の日光のようにうららかであったのである。 二 二千年前に電波通信法があった話 欧洲大戦の正に酣なる頃、アメリカのイリノイス大学の先生方が寄り集まって古代ギリシアの兵法書の翻訳を始め・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・ 近頃にない舒びやかな心持になって門を出たら、長閑な小春の日影がもうかなり西に傾いていた。 三 ノーベル・プライズ ある夜いつものように仕事をしていると電話がかかって来た。某新聞社からだという。何事かと思って出・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・平和な小春日がのどかに野を照らしていた。三島町へはいってもいっこう強震のあったらしい様子がないので不審に思っていると突然に倒壊家屋の一群にぶつかってなるほどと合点が行った。町の地図を三十銭で買って赤青の鉛筆で倒れ屋と安全な家との分布をしるし・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・やっと天気がよくなって小春の日光の誘惑を感ずるころには、子供が病気になっていてどうもそういう心持ちになれなかった。 十月十五日。朝あまり天気が朗らかであったので急に思い立って出かける事にした。このあいだM君と会った時、いつかいっしょ・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・しかしただ一度ある小春日のわが家の門前で起った些細な出来事だけがはっきり印象に残っている。多分七、八歳くらいの自分と五、六歳くらいの丑尾さんとが門前のたたきの斜面で日向ぼっこをしていた。自分が門柱にもたれてぼんやり前の小川を眺めていたとき丑・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
出典:青空文庫