・・・靄の中に仄めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩い波に絶えず揺すられていた。そのまた小犬は誰の仕業か、頸のまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷な気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみならず僕は彼がうたった・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・ お蓮は家へ帰って来ると、白い子犬を抱いたなり、二階の寝室へ上って行った。そうして真暗な座敷の中へ、そっとこの憐れな動物を放した。犬は小さな尾を振りながら、嬉しそうにそこらを歩き廻った。それは以前飼っていた時、彼女の寝台から石畳の上へ、・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 婆さんは水口の腰障子を開けると、暗い外へ小犬を捨てようとした。「まあ御待ち、ちょいと私も抱いて見たいから、――」「御止しなさいましよ。御召しでもよごれるといけません。」 お蓮は婆さんの止めるのも聞かず、両手にその犬を抱きと・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・それも岩殿を熊野になぞらえ、あの浦は和歌浦、この坂は蕪坂なぞと、一々名をつけてやるのじゃから、まず童たちが鹿狩と云っては、小犬を追いまわすのも同じ事じゃ。ただ音無の滝だけは本物よりもずっと大きかった。」「それでも都の噂では、奇瑞があった・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・白はまだ子犬の時から、牛乳のように白かったのですから。しかし今前足を見ると、いや、――前足ばかりではありません。胸も、腹も、後足も、すらりと上品に延びた尻尾も、みんな鍋底のようにまっ黒なのです。まっ黒! まっ黒! 白は気でも違ったように、飛・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・外を覗くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さえ跡を絶って、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに、吠え立てていた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかわしい景色だった。私の頭の中には云いようのない疲労・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・って、媚かしい、紅がら格子を五六軒見たあとは、細流が流れて、薬師山を一方に、呉羽神社の大鳥居前を過ぎたあたりから、往来う人も、来る人も、なくなって、古ぼけた酒店の杉葉の下に、茶と黒と、鞠の伸びたほどの小犬が、上になり下になり、おっとりと耳を・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・あたかも私の友人の家で純粋セッター種の仔が生れたので、或る時セッター種の深い長い艶々した天鵞絨よりも美くしい毛並と、性質が怜悧で敏捷こく、勇気に富みながら平生は沈着いて鷹揚である咄をして、一匹仔犬を世話をしようかというと、苦々しい顔をして、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・明治の酷吏伝の第一頁を飾るべき時の警視総監三島通庸は遺憾なく鉄腕を発揮して蟻の這う隙間もないまでに厳戒し、帝都の志士論客を小犬を追払うように一掃した。その時最も痛快なる芝居を打って大向うを唸らしたのは学堂尾崎行雄であった。尾崎は重なる逐客の・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ また小犬が遊んでいると、子供は立ち止まって、じっとそれをば見守りました。「わんわんや、わんわんや。」と、かわいらしい、ほんとうに心からやさしい声を出して、小さな手を出して招くのでした。 子供にとって、木の葉も、草も、小石も、鶏・・・ 小川未明 「幾年もたった後」
出典:青空文庫