・・・誰かに精しく訊いてから出直すつもりでいると、その中に一と月ほど経って、「小生事本日死去仕候」となった。一代の奇才は死の瞬間までも世間を茶にする用意を失わなかったが、一人の友人の見舞うものもない終焉は極めて淋しかった。それほど病気が重くなって・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・当時本郷の富坂の上に住っていた一青年たる小生は、壱岐殿坂を九分通り登った左側の「いろは」という小さな汁粉屋の横町を曲ったダラダラ坂を登り切った左側の小さな無商売屋造りの格子戸に博文館の看板が掛っていたのを記憶している。小生は朝に晩に其家の前・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ポマードでぴったりつけた頭髪を二三本指の先で揉みながら、「じつはお宅の何を小生の……」 妻にいただきたいと申し出でた。 金助がお君に、お前は、と訊くと、お君は、おそらく物心ついてからの口癖であるらしく、表情一つ動かさず、しいてい・・・ 織田作之助 「雨」
・・・候、内一枚は上田の姉に御届け下されたく候、ご覧のごとくますます肥え太りてもはや祖父様のお手には荷が少々勝ち過ぎるように相成り候、さればこのごろはただお膝の上にはい上がりてだだをこねおり候、この分にては小生が小供の時きき候と同じ昔噺を貞坊が聞・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・お手紙を見て驚喜仕候、両君の室は隣室の客を驚かす恐れあり、小生の室は御覧の如く独立の離島に候間、徹宵快談するもさまたげず、是非此方へ御出向き下され度く待ち上候 すると二人がやって来た。「君は何処を遍歴って此処へ来た?」と・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・画のためとなら小生はいつでも気が勇み立ちます、』といって彼はその蒼白い顔に得意の微笑を浮かべた。 彼は画板の袋から二、三枚の写生を取り出して見せたが、その進歩はすこぶる現われて、もはや素人の域を脱しているようである。『どうです散歩に・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・またたまにはその娘に逢った時、太郎坊があなたにお眼にかかりたいと申しておりました、などと云って戯れたり、あの次郎坊が小生に対って、早く元のご主人様のお嬢様にお逢い申したいのですが、いつになれば朝夕お傍に居られるような運びになりましょうかなぞ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・しかるに、昨年の秋、山田君から手紙が来て、小生は呼吸器をわるくしたので、これから一箇年、故郷に於いて静養して来るつもりだ、ついては大隅氏の縁談は貴君にたのむより他は無い、先方の御住所は左記のとおりであるから、よろしく聯絡せよ、という事であっ・・・ 太宰治 「佳日」
師走上旬 月日。「拝復。お言いつけの原稿用紙五百枚、御入手の趣、小生も安心いたしました。毎度の御引立、あり難く御礼申しあげます。しかも、このたびの御手簡には、小生ごときにまで誠実懇切の御忠告、あまり文壇・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・兵隊へ行っても、合う服が無かったり、いろいろ目立って、からかわれ、人一倍の苦労をするのではあるまいかと心配していたのであったが、戸石君からのお便りによると、「隊には小生よりも背の大きな兵隊が二三人居ります。しかしながら、スマートというも・・・ 太宰治 「散華」
出典:青空文庫