・・・西洋の居酒屋か何かなんでしょう。お酒の罎がずうっとならんでいて、すみの方には大きな鸚鵡の籠が一つ吊下げてあるんです。それが夜の所だと見えて、どこもかしこも一面に青くなっていました。その青い中で――私はその人の泣きそうな顔をその青い中で見たん・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・荒物屋を兼ねた居酒屋らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声がもれる外には、真直な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけが、けうとい唸りを立てていた。彼れと馬と妻とは前の通りに押黙って歩いた。歩いては時折り思い出したよう・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・暫く行くと道標の杙が立って居て、その側に居酒屋がある。その前に百姓が大勢居る。百姓はこの辺りをうろつく馬鹿者にイリュウシャというものがいるのをつかまえて、からかって居る。「一銭おくれ」と馬鹿は大儀そうな声でいった。「ふうむ薪でも割ってく・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 廂も、屋根も、居酒屋の軒にかかった杉の葉も、百姓屋の土間に据えてある粉挽臼も、皆目を以て、じろじろ睨めるようで、身の置処ないまでに、右から、左から、路をせばめられて、しめつけられて、小さく、堅くなつて、おどおどして、その癖、駆け出そうとす・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・スコットランドの素朴な風景や、居酒屋に集る人々等は、バーンズによって、永久に芸術に生かされている。 北方派の画家等にして、南欧の明るい風光に、一たび浴さんとしないものはない。彼等は、仏蘭西に行き、伊太利に行くを常とした。しかし、そこはま・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・そして散髪屋、雑貨屋、銭湯、居酒屋など人の集まるところの家族には、あらかじめ無料ですえてやり、仁の集まるのを待ち構えた。 もし、はやらなければ、宿賃の払いも心細い……と、口には出さなかったが、ぎろりとした眼を見張ってから一刻、ひょいと会・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・と言ったが笑いもせず、唯だ意外という顔付き、その風は赤いものずくめ、どう見ても居酒屋の酌婦としか受取れない。母の可怕い顔と自分の真面目な顔とを見比べていたが、「それからね母上さん、お鮨を取って下さいって」「そう、幾価ばかり?」「・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・正門のすぐ向いに茅屋根の、居酒屋ふうの店があり、それが約束のミルクホールであった。ここで待って居れ、と言われた。かれは、その飲食店の硝子戸をこじあけるのに苦労した。がたぴしして、なかなかあかないのである。あまの岩戸を開けるような恰好して、う・・・ 太宰治 「花燭」
・・・と答えて断り、こっそりひとりで寝酒など飲んで寝る、というやや贋隠者のあけくれにも似たる生活をしているのだけれども、それ以前の十五年間の東京生活に於いては、最下等の居酒屋に出入りして最下等の酒を飲み、所謂最下等の人物たちと語り合っていたもので・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・次郎兵衛は大社の大鳥居のまえの居酒屋で酒を呑みながら、外の雨脚と小走りに走って通る様様の女の姿を眺めていた。そのうちにふと腰を浮かしかけたのである。知人を見つけたからであった。彼の家のおむかいに住まっている習字のお師匠の娘であった。赤い花模・・・ 太宰治 「ロマネスク」
出典:青空文庫