序山吹の花の、わけて白く咲きたる、小雨の葉の色も、ゆあみしたる美しき女の、眉あおき風情に似ずやとて、――時 現代。所 修善寺温泉の裏路。同、下田街道へ捷径の山中。人 島津正洋画家。・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・また道灌が傘の代りに山吹の花を貰ったという歴史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している。その限界はあたかも国境または村境が山や河や、あるいは古跡や、いろいろのもので、定めらるるようにおのずから定められたもので、その定め・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ 静かな春の或る朝、その朝は、さいわい一人も泊り客はございませんでしたので、私はのんびり井戸端でお洗濯をしていますと、奥さまは、ふらふらとお庭へはだしで降りて行かれて、そうして山吹の花の咲いている垣のところにしゃがみ、かなりの血をお吐き・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・と言い残して川岸の、山吹の茂みの中に姿を消してそれっきり、翌日も、翌々日も河原へ出ては来なかった。佐野君だけは、相かわらず悠々と、あの柳の木の下で、釣糸を垂れ、四季の風物を眺め楽しんでいる。あの令嬢と、また逢いたいとも思っていない様子である・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・硝子窓の外は風雨吹暴れて、山吹の花の徒らに濡れたるなど、歌にでもしたいと思う。 躑躅は晩春の花というよりも初夏の花である。赤いのも白いのも好い。ある寺の裏庭に、大きな白躑躅があって、それが為めに暗い室が明るく感じられたのを思い出す。・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
始めてこの浜へ来たのは春も山吹の花が垣根に散る夕であった。浜へ汽船が着いても宿引きの人は来ぬ。独り荷物をかついで魚臭い漁師町を通り抜け、教わった通り防波堤に沿うて二町ばかりの宿の裏門を、やっとくぐった時、朧の門脇に捨てた貝・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ 牛込区内では○市ヶ谷冨久町饅頭谷より市ヶ谷八幡鳥居前を流れて外濠に入る溝川○弁天町の細流○早稲田鶴巻町山吹町辺を流れて江戸川に入る細流。 四谷新宿辺では○御苑外の上水堀○千駄ヶ谷水車ありし細流。 小石川区内では○植物園門前の小・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・あの早稲田の学生であって、子規や僕らの俳友の藤野古白は姿見橋――太田道灌の山吹の里の近所の――あたりの素人屋にいた。僕の馬場下の家とは近いものだから、おりおりやってきて熱烈な議論をやった。あの男は君も知っているだろう。精神錯乱で自殺してしま・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・その歌左に人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、わらはしてとりにやりけるにもたせやりたる山吹のみの一つだに無き宿はかさも二つはもたぬなりけり その貧乏さ加減、我らにも覚えのあることなり。ひた土に筵・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・けれども出来上って見ると巧拙にかかわらず何だか嬉しいので、翌日もまた痲痺剤の力をかりてそれに二、三輪の山吹と二輪の椿とを并べて書き添え、一枚の紙をとうとう書き塞げてしもうた。そうして赤椿黄色山吹紫ニムレテ咲ケルハタテタテノ花という一・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
出典:青空文庫