・・・路傍の茶店を一軒見つけ出して怪しい昼飯を済まして、それから奥へ進んで行く所がだんだん山が近くなるほど村も淋しくなる、心細い様ではあるがまたなつかしい心持もした。山路にかかって来ると路は思いの外によい路で、あまり林などはないから麓村などを見下・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・駕籠舁の頻りに駕籠をすすむるを耳にもかけず「山路の菊野菊ともまた違ひけり」と吟じつつ行けば どつさりと山駕籠おろす野菊かな 石原に痩せて倒るゝ野菊かななどおのずから口に浮みてはや二子山鼻先に近し。谷に臨めるかたばかりの茶・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・芭蕉集中全く客観的なるものを挙ぐれば四、五十句に過ぎざるべく、中につきて絵画となし得べきものを択みなば鶯や柳のうしろ藪の前 芭蕉梅が香にのっと日の出る山路かな 同古寺の桃に米蹈む男かな 同時鳥大竹藪を漏る月夜 同・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・おふみに扮した山路ふみ子は、宿屋の女中のとき、カフェーのやけになった女給のとき、女万歳師になったとき、それぞれ力演でやっている。けれども、その場面場面で一杯にやっているだけで、桃割娘から初まる生涯の波瀾の裡を、綿々とつらぬき流れてゆく女の心・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・―― 今、若葉照りの彼方から聞えて来るその声は、私に、八月頃深い山路で耳にする藪鶯の響を思い出させた。板谷峠の奥に、大きい谿川が流れて居る。飛沫をあげて水の流れ下る巖角に裾をまくった父が悠々此方を向いて跼んで居る。風で、彼方の崖の樹が戦・・・ 宮本百合子 「木蔭の椽」
・・・ 或時は、花が一杯咲いて気の遠くなる様なよい匂いのする原っぱを歩きよろこんで居るうちに、道がいつの間にか嶮しい山路になって私は牡鹿の様なすばやさで谷から谷へ渡らなければなりませんでした。 急な川の流れを越そうとして足をさらわれたり、・・・ 宮本百合子 「旅人(一幕)」
・・・そして姉は浜辺へ、弟は山路をさして行くのである。大夫が邸の三の木戸、二の木戸、一の木戸を一しょに出て、二人は霜を履んで、見返りがちに左右へ別れた。 厨子王が登る山は由良が嶽の裾で、石浦からは少し南へ行って登るのである。柴を苅る所は、麓か・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・右左に帆木綿のとばりあり、上下にすじがね引きて、それを帳の端の環にとおしてあけたてす。山路になりてよりは、二頭の馬喘ぎ喘ぎ引くに、軌幅極めて狭き車の震ること甚しく、雨さえ降りて例の帳閉じたれば息籠もりて汗の臭車に満ち、頭痛み堪えがたし。嶺は・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・具足の威は濃藍で、魚目はいかにも堅そうだし、そして胴の上縁は離れ山路であッさり囲まれ、その中には根笹のくずしが打たれてある。腰の物は大小ともになかなか見事な製作で、鍔には、誰の作か、活き活きとした蜂が二疋ほど毛彫りになッている。古いながら具・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・それから露に湿った三里の山路を馳け続けた。「馬車はまだかのう?」 彼女は馭者部屋を覗いて呼んだが返事がない。「馬車はまだかのう?」 歪んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶がひとり静に流れていた。農婦はうろう・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫