立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねた・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・いや、端正に過ぎる結果、むしろ険のあるくらいである。 女はさも珍らしそうに聖水盤や祈祷机を見ながら、怯ず怯ず堂の奥へ歩み寄った。すると薄暗い聖壇の前に神父が一人跪いている。女はやや驚いたように、ぴたりとそこへ足を止めた。が、相手の祈祷し・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ ぎょろりと目を剥き、険な面で、「これえ。」と言った。 が、鰯の催促をしたようで。「今、焼いとるんや。」 と隣室の茶の室で、女房の、その、上の姉が皺びた声。「なんまいだ。」 と婆が唱える。……これが――「姫松殿が・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ちぱちして、瞶めておりました壁の表へ、絵に描いたように、茫然、可恐しく脊の高い、お神さんの姿が顕れまして、私が夢かと思って、熟と瞶めております中、跫音もせず壁から抜け出して、枕頭へ立ちましたが、面長で険のある、鼻の高い、凄いほど好い年増なん・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・急に険相な顔になって、「何だい、そのにらみざまは? 蛙じゃアあるめいし。手拭をここへ置くのがいけなけりゃア、勝手に自分でどこへでもかけるがいい! いけ好かない小まッちゃくれだ!」「一体どうしたんだ」と、僕がちょっと吉弥に当って、お君をふ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・と重ねていうと、「墓碑なら書くよ、生きてる中は険呑だから書かんが、死んだら君の墓石へ書いてやろう、」といった。「調戯じゃない。君と僕とドッチが先きへ死ぬか、年からいったって解るじゃないか。」「そりゃア解ってるさ。君のようにむやみと薬・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・と、すぐ足元に寝ていた男に、「おいおい。人の頭の上で泥下駄を垂下げてる奴があるかい。あっちの壁ぎわが空いてら。そら、駱駝の背中みたいなあの向う、あそこへ行きねえ。」と険突を食わされた。 駱駝の背中と言ったのは壁ぎわの寝床で、夫婦者と・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・浜子は近ごろ父との夫婦仲が思わしくないためかだんだん険の出てきた声で、――何や、けったいな子やなア。ほな、十吉はうちで留守番してなはれ。昼間、私が新次を表へ連れだして遊んでいると、近所の人々には、私がむりやり子守をさせられているとしか見えな・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・『オヤ外にいたの、何してるんだねえ、早くお閉めよ、』と険貪に言う。『星が見えるよ、』と言って娘は肩をすぼめて、男の顔を見てにっこり笑う。『早くお入りよ、』と言って男は踏切の方へすたこら行ってしまったが、たちまち姿が見えなくなった・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・「いやその安価のが私ゃ気に喰わんのだが、先ず御互の議論が通ってあの予算で行くのだから、そう安ぽい直ぐ欄の倒れるような険呑なものは出来上らんと思うがね」と言って気を更え、「其処で寄附金じゃが未だ大な口が二三残ってはいないかね?」「未だ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫