・・・動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟と緊張とに、せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、な・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・神業と思うにや、六部順礼など遠く来りて賽すとて、一文銭二文銭の青く錆びたるが、円き木の葉のごとくあたりに落散りしを見たり。深く山の峡を探るに及ばず。村の往来のすぐ路端に、百姓家の間にあたかも総井戸のごとくにあり。いつなりけん、途すがら立寄り・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・陰になって霜げながら、貧しい場末の町端から、山裾の浅い谿に、小流の畝々と、次第高に、何ヶ寺も皆日蓮宗の寺が続いて、天満宮、清正公、弁財天、鬼子母神、七面大明神、妙見宮、寺々に祭った神仏を、日課のごとく巡礼した。「……御飯が食べられますよ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・……樹島は赤門寺を出てから、仁王尊の大草鞋を船にして、寺々の巷を漕ぐように、秋日和の巡礼街道。――一度この鐘楼に上ったのであったが、攀じるに急だし、汗には且つなる、地内はいずれ仏神の垂跡に面して身がしまる。 旅のつかれも、ともに、吻と一・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・稲妻を浴びせたように……可哀相に……チョッいっそ二人で巡礼でも。……いやいや先生に誓った上は。――ええ、俺は困った。どうしよう。お蔦 聞かして下さい、聞かして下さい、私ゃ心配で身体がすくむ。(と忙早く聞かして下さいな。(と静早瀬 俺・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ いまは既に昔、ヤスナポリヤナに幾百人のつゝましやかな敬虔な心の深い青年が巡礼に出かけたであろう。 無産階級にとって心からの喜びは、物質的に救わるゝことによって不自由をしないということでない。それも、要求の一つであろうが当然得らるべ・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・「私はその時は詮方がありませんから、妻を伴れて諸国巡礼に出ようと思ってたんです。私のようなものではしょせん世間で働いてみたってだめですし、その苦しみにも堪ええないのです。もっとも妻がいっしょに行く行かないということは、妻の自由ですが……・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ かくて源叔父は昔見し芝居の筋を語りいで、巡礼謡をかすかなる声にてうたい聞かせつ、あわれと思わずやといいてみずから泣きぬ。紀州には何事も解しかぬ様なり。「よしよし、話のみにては解しがたし、目に見なばそなたもかならず泣かん」いいおわり・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・実に西国巡礼の最初の御方である。また最近の支那事変で某陸軍大尉の夫人が戦死した夫の跡を追い海に入って生命を捨てた事実は記憶に新しい。その戦死した夫の遺書には、「再婚せんと欲すれば再婚も可なり。此の世に希望なくば潔く自決すべし」・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・世界を家とする巡礼者のような心であちこちと提げ回った古い鞄――その外国の旅の形見が、まだそこに残っていた。「子供でも大きくなったら。」 私はそればかりを願って来たようなものだ。あの愛宕下の宿屋のほうで、太郎と次郎の二人だけをそばに置・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫