・・・ 秋になると、蜻蛉も、ひ弱く、肉体は死んで、精神だけがふらふら飛んでいる様子を指して言っている言葉らしい。蜻蛉のからだが、秋の日ざしに、透きとおって見える。 秋ハ夏ノ焼ケ残リサ。と書いてある。焦土である。 夏ハ、シャンデリヤ。秋・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・ これは明らかに数学などを指したものである。数学嫌いの生徒は日本に限らないと見えて、モスコフスキーの云うところに拠ると、かなりはしっこい頭でありながら、数学にかけてはまるで低能で、学校生活中に襲われた数学の悪夢に生涯取り付かれてうなされ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・私は左手の漂渺とした水霧の果てに、虫のように簇ってみえる微かな明りを指しながら言った。「ちがいますがな。大阪はもっともっと先に、微かに火のちらちらしている他ですがな」そう言って彼はまた右手の方を指しながら、「あれが和田岬です」「・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼が出来上り、それからお取り膳の差しつ押えつ、まことにお浦山吹きの一場は、次の巻の出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後は書かず。読者諒せよ。明治四十五年四月・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 槍の穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ランスロットとギニヴィアの視線がはたと行き合う。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば」と男は馬の太腹をける。白き兜と挿毛のさと靡くあとに、残るは漠々たる塵のみ。 ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ コムパスは、南西を指していた。ところが、そんな処に、島はない筈であった。 コーターマスターは、メーツに、「どうもおかしい」旨を告げた。 メーツは、ブリッジで、涼風に吹かれながら、ソーファーに眠っていたが、起き上って来て、「・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・内外の用とは何事を指していうか。官の用か、商売の用か。その用の価は子を養教するの用に比較して綿密に軽重を量りたるか。甚だ疑うべし。 また口実に云く、戸外の用も内実は好む所にあらざれども、この用に従事せざれば銭を得ず、銭なければ家を支うる・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのおそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、という事であった。〔『ホトトギス』第四巻第七号 明治34・4・25 二〕 正岡子規 「くだもの」
・・・そしていきなり私にぶっつかりびっくりして飛びのきながら一人が空を指して叫びました。「ごらん、そら、インドラの網を。」 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ その頃大変流行った、前髪を切下げた束髪にして、真赤な珊瑚の大きな簪を差した友子さんは、紅をつけた唇を曲げながら、「貴女はどうお思いになって?」と、政子さんの返事を求めました。 子供の時から、姉妹のように暮している政子さんと・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
出典:青空文庫