・・・ただ、何故それを嘘だと思ったかと云われれば、それを嘘だと思った所に、己の己惚れがあると云われれば、己には元より抗弁するだけの理由はない。それにも関らず、己はその嘘だと云う事を信じていた。今でも猶信じている。 が、この征服心もまた、当時の・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・不肖行年六十一、まだ一度も芸術家のように莫迦莫迦しい己惚れを起したことはない。」 批評学 ――佐佐木茂索君に―― 或天気の好い午前である。博士に化けた Mephistopheles は或大学の講壇に批評学の講義・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・軽部は小柄なわりに顔の造作が大きく、太い眉毛の下にぎょろりと眼が突き出し、分厚い唇の上に鼻がのしかかっていて、まるで文楽人形の赤面みたいだが、彼はそれを雄大な顔と己惚れていた。けれども、顔のことに触れられると、何がなしいい気持はしなかった。・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 支店と直営店とは、だいいち店の構えからして違って、直営店に客が集まるのは当然のこと、支店の自滅策としてこれ以上の効果的な方法はなかったと、いまもおれは己惚れている。しかしこれも弁解すれば、結果から見てのこと、何も計画的に支店をつぶす肚・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・いや、己惚れていた。そして、迷いもしなかった。現実を見る眼と、それを書く手の間にはつねに矛盾はなかったのだ。 ところが、ふとそれが出来なくなってしまったのだ。おかしいと新吉は首をひねった。落ちというのは、いわば将棋の詰手のようなものであ・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・ただ私は、人に好かれたかった、自分に自信をもちたかった、自分の容貌にさえ己惚れたかったのだ。だから、はじめて見合いして、仲人口を借りていえば、ほんとうに何から何まで気に入りましたといわれれば、私も女だ。いくらかその人を見直す気になり、ぼそん・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
僕は視力が健全である。これはありがたいものに思っている。むしろ己惚れている。 己惚れの種類も思えば数限りないものである。人は己惚れが無くてはさびしくて生きておれまい。よしんばそれが耳かきですくう程のささやかな己惚れにせよ、人は・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・娘のことなどどうでも良い顔で、だからひそかに自分に己惚れていたのだった。何やかやで、蝶子は逆上した。部屋のガラス障子に盞を投げた。芸者達はこそこそと逃げ帰った。が、間もなく蝶子は先刻の芸者達を名指しで呼んだ。自分ももと芸者であったからには、・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・あとで、チップもない客だと、塩をまく真似されたとは知らず、己惚れも手伝って、坂田はたまりかねて大晦日の晩、集金を済ませた足でいそいそと出掛けた。 それから病みつきで、なんということか、明けて元旦から松の内の間一日も缺かさず、悲しいくらい・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・いやになるくらい己惚れ屋だ。私は時に傲語する、おれは人が十行で書けるところを一行で書ける術を知っている――と。しかし、こんな自信は何とけちくさい自信だろう。私は、人が十行で書けるところを、千行に書く術を知っている――と言える時が来るのを待っ・・・ 織田作之助 「私の文学」
出典:青空文庫