・・・僕らは玄関の前にたたずんだまま、しばらくこの建築よりもむしろ途方もない怪物に近い稀代の大寺院を見上げていました。 大寺院の内部もまた広大です。そのコリント風の円柱の立った中には参詣人が何人も歩いていました。しかしそれらは僕らのように非常・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ですから翁は蒐集家としても、この稀代の黄一峯が欲しくてたまらなくなったのです。 そこで潤州にいる間に、翁は人を張氏に遣わして、秋山図を譲ってもらいたいと、何度も交渉してみました。が、張氏はどうしても、翁の相談に応じません。あの顔色の蒼白・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・「高いんじゃあないな、あれは希代だ。一体馬面で顔も胴位あろう、白い髯が針を刻んでなすりつけたように生えている、頤といったら臍の下に届いて、その腮の処まで垂下って、口へ押冠さった鼻の尖はぜんまいのように巻いているじゃあないか。薄紅く色がつ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 学生時代に、その講義を聴いた小泉八雲氏は、稀代な名文家として知られていますが、たとえば、夏の夜の描写になると、殆んど、熱した空気が、肌に触れるようにまた、氏の好めるやさしい女性が、さゝやく時には、その息が、自分の顔にまで、かゝるように・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
小は大道易者から大はイエスキリストに到るまで予言者の数はまことに多いが、稀代の予言狂乃至予言魔といえば、そうざらにいるわけではない。まず日本でいえば大本教の出口王仁三郎などは、少数の予言狂、予言魔のうちの一人であろう。 まこと・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・で情夫の石田吉蔵を殺害して、その肉体の一部を斬り取って逃亡したという稀代の妖婦の情痴事件が世をさわがせたのは、たしか昭和十一年五月であったが、丁度その頃私はカフェ美人座の照井静子という女に、二十四歳の年少多感の胸を焦がしていた。 美人座・・・ 織田作之助 「世相」
・・・今日の社会においては、もし疾病なく、傷害なく、真に自然の死をとげうる人があるとすれば、それは、希代の偶然・僥倖といわねばならぬ。 実際、いかに絶大の権力を有し、百万の富を擁して、その衣食住はほとんど完全の域に達している人びとでも、またか・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・うに衝突したり人を轢いたりして居る、米と株券と商品の相場は、刻々に乱高下して居る、警察・裁判所・監獄は多忙を極めて居る、今日の社会に於ては、若し疾病なく障害なく真に自然の死を遂げ得る人ありとせば、其は希代の偶然・僥倖と言わねばならぬ。 ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ ――われは盗賊。希代のすね者。かつて芸術家は人を殺さぬ。かつて芸術家はものを盗まぬ。おのれ。ちゃちな小利巧の仲間。 大学生たちをどんどん押しのけ、ようやく食堂の入口にたどりつく。入口には小さい貼紙があって、それにはこう書きしたため・・・ 太宰治 「逆行」
・・・おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐・・・ 太宰治 「走れメロス」
出典:青空文庫