・・・第一顔色も非常に悪い。のみならず苛立たしさに堪えないように長靴の脚を動かしている。彼女はそのためにいつものように微笑することも忘れたなり、一体細引を何にするつもりか、聞かしてくれと歎願した。しかし夫は苦しそうに額の汗を拭いながら、こう繰り返・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・私は常に自分の実生活の状態についてくよくよしている。そして、その生活と芸術との間に、正しい関係を持ちきたしたいと苦慮している、これが私の心の実状である。こういう心事をもって、私はみずからを第一の種類の芸術家らしく装うことはできない。装うこと・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至は長く忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接穂がなくてとうとう一生言い出さずにしまうというような、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験している。多くの人はそれを軽蔑し・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・その事をば、母上の御名にかけて誓えよと、常にミリヤアドのいえるなりき。 予は黙してうつむきぬ。「何もね、いまといっていま、あなたに迫るんじゃありません。どうぞ悪く思わないで下さいまし、しかしお考えなすッてね。」 また顔見たり。・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・幼ないもの共は茶室へ寝るのを非常に悦んだ。そうして間もなく無心に眠ってしまった。二人の姉共と彼らの母とは、この気味の悪い雨の夜に別れ別れに寝るのは心細いというて、雨を冒し水を渡って茶室へやって来た。 それでも、これだけの事で済んでくれれ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・大河内家の先代輝音侯というは頗る風流の貴族で常に文墨の士を近づけた。就中、椿岳の恬淡洒落を愛して方外の友を以て遇していた。この大河内家の客座敷から横手に見える羽目板が目触りだというので、椿岳は工風をして廂を少し突出して、羽目板へ直接にパノラ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・非常に面白い下女で、私のところに参りましてから、いろいろの世話をいたします。ある時はほとんど私の母のように私の世話をしてくれます。その女が手紙を書くのを側で見ていますと、非常な手紙です。筆を横に取って、仮名で、土佐言葉で書く。今あとで坂本さ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 此の新聞は午前の四時頃になると配達されるので常に家内のものが眠っているうちに戸の隙間から入れて行くのが例であった。私はもしこの時分に起きて家の外に出て道の上に立っていたなら、偶然にこの新聞配達夫が通り過ぎるのを見ないとは限らないと思っ・・・ 小川未明 「ある日の午後」
・・・なところへ女の来る道理がないから、不思議に思ってよく見ようとするが、奇妙に、その紫色の帯の処までは、辛うじて見えるが、それから上は、見ようとして、幾ら身を悶掻いても見る事が出来ない、しかもこの時は、非常に息苦しくて、眼は開いているが、如何し・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・ しかし、坂田の端の歩突きは、いかに阿呆な手であったにしろ、常に横紙破りの将棋をさして来た坂田の青春の手であった。一生一代の対局に二度も続けてこのような手を以て戦った坂田の自信のほどには呆れざるを得ないが、しかし、六十八歳の坂田が一生一・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫