・・・そうして右の手を平にして、それを臼でも挽く時のように動かしている。礼をしたら、順々に柩の後ろをまわって、出て行ってくれという合図だろう。 柩は寝棺である。のせてある台は三尺ばかりしかない。そばに立つと、眼と鼻の間に、中が見下された。中に・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・海は――目の前に開いている海も、さながら白昼の寂寞に聞き入ってでもいるかのごとく、雲母よりもまぶしい水面を凝然と平に張りつめている。樗牛の吐息はこんな瞬間に、はじめて彼の胸からあふれて出た。――自分はこういう樗牛を想像しながら、長い秋の夜を・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。 見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・夜は恐ろしく更けただが、浪も平になっただから、おらも息を吐いたがね。 えてものめ、何が息を吐かせべい。 アホイ、アホイ、とおらが耳の傍でまた呼ばる。 黙って漕げ、といわっしゃるで、おらは、スウとも泣かねえだが、腹の中で懸声さする・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・出来の上で、と辞して肯ぜぬのを、平にと納めさすと、きちょうめんに、硯に直って、ごしごしと墨をあたって、席書をするように、受取を―― 記一金……円也「ま、ま、摩……耶の字?……ああ、分りました。」「御主人。」 と・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・当家のお母堂様も御存じじゃった、親仁こういう事が大好きじゃ、平に一番遣らせてくれ。村越 かえってお心任せが可いでしょう。しかし、ちょうど使のものもあります、お恥かしい御膳ですが、あとから持たせて差上げます。撫子 あの、赤の御飯を添え・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・先ほどの処の地続きは平にならされてテニスコートになっている。軟球を打ち合っている人があった。――路らしい路ではなかったがやはり近道だった。「遠そうだね」「あそこに木がこんもり茂っているだろう。あの裏に隠れているんだ」 停留所はほ・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・と善平に紹介されたる辰弥は、例の隔てなき挨拶をせしが、心の中は穏やかならず。この蒼白き、仔細らしき、あやしき男はそもそも何者ぞ。光代の振舞いのなお心得ぬ。あるいは、とばかり疑いしが、色にも見せずあくまで快げに装いぬ。傲然として鼻の先にあしら・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ですから、自分の昔話をして今の学生諸君に御聞かせ申そうというような事は、実際ほとんど無いと云ってもよいのです。ですから平に御断りを致します。何処ぞの学校の寄宿舎にでも居ったとか何とかいう経歴がありましたら、下らない談話でも何でも、何か御話し・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ 水田は低く平に、雲の動く空のはずれまで遮るものなくひろがっている。遥に樹林と人家とが村の形をなして水田のはずれに横たわっているあたりに、灰色の塔の如きものの立っているのが見える。江戸川の水勢を軟らげ暴漲の虞なからしむる放水路の関門であ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫