・・・ こういう飛びぬけた頭脳を持っていて、そして比較的短い年月の間にこれだけの仕事を仕遂げるだけの活力を持っている人間の、「人」としての生立ちや、日常生活や、環境は多くの人の知りたいと思うところであろう。 それで私は有り合せの手近な材料・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ この年月の経験で、鐘の声が最もわたくしを喜ばすのは、二、三日荒れに荒れた木枯しが、短い冬の日のあわただしく暮れると共に、ぱったり吹きやんで、寒い夜が一層寒く、一層静になったように思われる時、つけたばかりの燈火の下に、独り夕餉の箸を取上・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・――シャロットの女が幾年月の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝に向い夕に向い、日に向い月に向いて、厭くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞ありとは夢にだも知らず。湛然と・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・来た頃は留学中の或教授の留守居というのであったが、遂にここに留まることとなり、烏兎怱々いつしか二十年近くの年月を過すに至った。近来はしばしば、家庭の不幸に遇い、心身共に銷磨して、成すべきことも成さず、尽すべきことも尽さなかった。今日、諸君の・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・少年のとき四書五経の素読に費す年月はおびただしきものなり。字を知りし上にてこれを読めば、独見にて一月の間に読み終るべし。とかく読書の要は、易きを先にし難きを後にするにあり。一、漢洋兼学は難きことなれば一方にしたがうべきなど、弱き説を唱う・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・そうして赤椿黄色山吹紫ニムレテ咲ケルハタテタテノ花という一首の歌を書きその横に年月を書き、それで出来上った。このタテタテの花というのは紫色の小さな袋のような花で、その中にある蕊を取ってそれを掌の上に並べ置き、手の脈所のところをトント・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
宮本顕治には、これまで四冊の文芸評論集がある。『レーニン主義文学闘争への道』『文芸評論』『敗北の文学』『人民の文学』。治安維持法と戦争との長い年月の間はじめの二冊の文芸評論集は発禁になっていた。著者が十二年間の獄中生活から・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・自分の職業に気を取られて、ただ営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・何ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手をつけるということが、それほどの潔癖から長い年月の間、独身で暮さねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。・・・ 横光利一 「蠅」
・・・この文章は十七年前に書かれたものであるが、その後の年月はこの文章の誤謬をはっきりと示している。木下は確乎としたフマニストであって享楽人ではない。 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫