・・・黒田が此処に居たのはまだ学校に居た頃からで、自分はほとんど毎日のように出入りしたから主婦とも古い馴染ではあるが、黒田が居なくなってからは妙に疎くなってしまって、今日も店に人の居なかったのを却って仕合せに声もかけずに通り過ぎた。しかしこの家の・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ 以上は口調というちょっとつかまえ処のないようなものを何とかして系統的に研究しようとする方法の第一歩を暗示するものだとして見てもらわれれば仕合せである。 寺田寅彦 「歌の口調」
・・・「じゃまあ芳ちゃんは仕合せだね」「でも旦那は躯が弱いから」 道太は掃除の邪魔をしないように、やがて裏梯子をおりて、また茶の室の方へ出てきた。ちょうどおひろが高脚のお膳を出して、一人で御飯を食べているところで、これでよく生命が続く・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるような好風景の残っていたのを知ったのは、全く思い掛けない仕合せであった。 わたくしは近年市街と化した多摩川沿岸、また荒川沿岸の光景から推察して、江戸川東岸の郊外・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・其所が明るくなったのは仕合せである。しかし其所だけが明るくなったのは不都合である。 一般の社会はつい二、三週間前まで博士の存在について全く神経を使わなかった。一般の社会は今日といえども科学という世界の存在については殆んど不関心に打ち過ぎ・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・「ありがたい仕合せだ。まるで御供のようだね」「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯の相談をする。「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで腹が突張ってたまらない」「では蕎・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・左れば此至親至愛の子供の身の行末を思案し、兄弟姉妹の中、誰れか仕合せ能くして誰れか不仕合せならんと胸中に打算して、此子が不仕合せなりと定まりたらば両親の苦痛は如何ばかりなる可きや。子供の心身の暗弱四肢耳目の不具は申すまでもなく、一本の歯一点・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・不幸な嫁入り先から戻って来てそのような暮しをしている岡本から見ればふき子も陽子も仕合わせすぎて腹立たしい事もあろう。陽子は、世界が違う気楽な若者と暗闘する岡本の気持がわかるような気がした。 彼等は皆で海岸へ出た。海浜ホテルの前あたりには・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ それから先生は、人と云うものが、決して学校で好い点を取る丈が立派なのではないと云う事、利口だと云って褒められて、他人の不仕合わせなのを思い遣らずに威張るようでは、真個に恥しいのだという事をお話になりました。そして、終いに「貴女は、・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・前文隈本の方へは、某頭を剃りこくりおり候えば、爪なりとも少々この遺書に取添え御遣し下され候わば仕合せ申すべく候。床の間に並べ有之候御位牌三基は、某が奉公仕りし細川越中守忠興入道宗立三斎殿御事松向寺殿を始とし、同越中守忠利殿御事妙解院殿、同肥・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫