・・・そのあいての顔から視線をはずしているのに、口から鼻のまわりへかけてゆれうごくものが、三吉の頭の中にある彼女の幻影を、むざんにうちくだいてゆくのが、ありありとわかった。「貴女のうちは遠くて、通いがたいへんでしょう」 彼女の幻影をとりと・・・ 徳永直 「白い道」
・・・名あるかと聞けば只幻影の盾と答える。ウィリアムはその他を言わぬ。 盾の形は望の夜の月の如く丸い。鋼で饅頭形の表を一面に張りつめてあるから、輝やける色さえも月に似ている。縁を繞りて小指の先程の鋲が奇麗に五分程の間を置いて植えられてある。鋲・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・自分は幻影を見ているのだ。さもなければ狂気したのだ。私自身の宇宙が、意識のバランスを失って崩壊したのだ。 私は自分が怖くなった。或る恐ろしい最後の破滅が、すぐ近い所まで、自分に迫って来るのを強く感じた。戦慄が闇を走った。だが次の瞬間、私・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・段々その幻影がぼやけ、紐だけはっきり由子の心に遺った。紐は帯留めのお下りであった。あの帯留は母が買って来た。「まあこんな廉いものがあるんだね」そう云って由子の前へ出して見せた。「するのならあげよう」由子が平常にしめているうちに、真中に嵌って・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・ その女の歴史の切ない必然を見ることをしない男たちは自分らの不明を反省するより浅はかな理想の幻影にエキセントリックなまでに殉じようとした彼女らをあざける。と、正当な怒りが向けられている。「麦死なず・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・或時は何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないうちに消えてしまう。女の形をしている時もある。種々の栄華の夢になっている時もある。それかと思うと、その頃碧巌を見たり無門関を見たりしていたので、禅定めいた contemplatif ・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・それは夢のような幻影としても、負け苦しむ幻影より喜び勝ちたい幻影の方が強力に梶を支配していた。祖国ギリシャの敗戦のとき、シラクサの城壁に迫るローマの大艦隊を、錨で釣り上げ投げつける起重機や、敵船体を焼きつける鏡の発明に夢中になったアルキメデ・・・ 横光利一 「微笑」
・・・古い演劇は外形的模倣的、ただ平凡な意味における幻影を目的とし、誇大によって勝利を得ていた。デュウゼは演劇を暗示と神秘と芸術的省略とに充ちた複雑な精神的な芸術となしたのだ。 エレオノラ・デュウゼのことば。――演劇を今日の堕落から救・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・あるいはまた幻影に囚われた理想家を現実に引きもどした、という意味で。――しかしそれは決して以前よりも深い真実を捕えてくれたわけでなかった。それのもたらした新事実をあげれば、まず自然科学の進歩、社会主義の勃興、一般人民の物質的享楽への権利の主・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
・・・たとえば芸術家の晩年の傑作などには、よく青春期の幻影が蘇生し完成されたのがあるそうです。また中年以後に起こる精神的革命なども、多くはこの時期に萌え出て、そうして閑却されていた芽の、突然な急激な成長によるということです。それほどこの時期の精神・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫