・・・のみならず常子の馬の脚を見たのも幻覚に陥ったことと信じている。わたしは北京滞在中、山井博士や牟多口氏に会い、たびたびその妄を破ろうとした。が、いつも反対の嘲笑を受けるばかりだった。その後も、――いや、最近には小説家岡田三郎氏も誰かからこの話・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。―― ある時は床へはいった彼女が、やっと眠に就こうとすると、突然何かがのったように、夜着の裾がじわりと重くなった。小犬はまだ生きていた時分、彼女の蒲団の上へ来ては、よ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ あるいはまた少年に起り易い幻覚の一種に過ぎなかったのであろうか? それは勿論彼自身にも解決出来ないのに違いない。が、とにかく保吉は三十年後の今日さえ、しみじみ塵労に疲れた時にはこの永久に帰って来ないヴェネチアの少女を思い出している、ちょう・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・いや、時には、実際、すべてを幻覚と言う名で片づけてしまおうとした事さえございます。 すると、恰も私のその油断を戒めでもするように、第二の私は、再び私の前に現れました。 これは一月の十七日、丁度木曜日の正午近くの事でございます。その日・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・彼れは闇の中で不思議な幻覚に陥りながら淡くほほえんだ。 足音が聞こえた。彼れの神経は一時に叢立った。しかしやがて彼れの前に立ったのはたしかに女の形ではなかった。「誰れだ汝ゃ」 低かったけれども闇をすかして眼を据えた彼れの声は怒り・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・僕はどうかするとあの仏殿の地蔵様の坐っている真下が頸を刎ねる場所で、そこで罪人がやられている光景が想像されたり、あの白槇の老木に浮ばれない罪人の人魂が燃えたりする幻覚に悩されたりするが、自分ながら神経がどうかしてる気がして怖くなる……」と、・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・友だちはそれは酒精中毒からの幻覚というものだったと言ったが、僕にはその幻覚でよかったんさ。で僕は、僕という人間は、結局自分自身の亡霊相手に一生を送るほかには能のない人間だろうと、極めてしまったのだ。……お前はどう思ってるか知らんが、突然妻の・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ おそらく死に際の幻覚には目にたてて見る塵もない自分の家の前庭や、したたり集って来る苔の水が水晶のように美しい筧の水溜りが彼を悲しませたであろう。 これがこの小さな字である。 断片 二 温泉は街道から幾折れかの石・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。 しかし、昨日、・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・ 堯は近くへ散歩に出ると、近頃はことに母の幻覚に出会った。母だ! と思ってそれが見も知らぬ人の顔であるとき、彼はよく変なことを思った。――すーっと変わったようだった。また母がもう彼の部屋へ来て坐りこんでいる姿が目にちらつき、家へ引き返し・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫