・・・それは武の幼名を徳助と言ってから、十二三のころ、徳の父が当世流に武と改名さしたのだ。 徳の姿を見ると二三日前の徳の言葉を老人は思い出した。 徳の説く所もまんざら無理ではない。道理はあるが、あの徳の言い草が本気でない。真実彼奴はそう信・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・今より七百十五年前、後堀川天皇の、承久四年二月十六日に、安房ノ国長狭郡東条に貫名重忠を父とし、梅菊を母として生まれ、幼名を善日麿とよんだ。 彼の父母は元は由緒ある武士だったのが、北条氏のため房州に謫せられ、落魄して漁民となったのだといわ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・と私の幼名を呼ぶ者がある。「や、慶四郎。」と私も答えた。 加藤慶四郎君は白衣である。胸に傷痍軍人の徽章をつけている。もうそれだけで私には万事が察せられた。「御苦労様だったな。」私のこんな時の挨拶は甚だまずい。しどろもどろになるの・・・ 太宰治 「雀」
・・・初めは明石氏で、幼名を猪之助といった。はやくから忠利の側近く仕えて、千百石余の身分になっている。島原征伐のとき、子供五人のうち三人まで軍功によって新知二百石ずつをもらった。この弥一右衛門は家中でも殉死するはずのように思い、当人もまた忠利の夜・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・元和五年御当代光尚公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君と申候。景一は六丸君御附と相成り候。元和七年三斎公御致仕遊ばされ候時、景一も剃髪いたし、宗也と名告り候。寛永九年十二月九日御先代妙解院殿忠利公肥後へ御入国遊ばされ候時、景一も御供いたし候。十八・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
出典:青空文庫