・・・通りすがりに覗いて見たら、ただある教室の黒板の上に幾何の図が一つ描き忘れてあった。幾何の図は彼が覗いたのを知ると、消されると思ったのに違いない。たちまち伸びたり縮んだりしながら、「次の時間に入用なのです。」と云った。 保吉はもと降り・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・十年前だった、塚原靖島田三郎合訳と署した代数学だか幾何学だかを偶然或る古本屋で見附けた。余り畑違いの著述であるのを不思議に思って、それから間もなく塚原老人に会った時に訊くと、「大変なものを見附けられた。アレはネ……」と渋柿園老人は例の磊落な・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・それで来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには少くとも幾何の遺物を貯えておきたい。この一年の後にわれわれがふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のために・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・そこには、幾何、流浪の旅に上った芸術家があったか知れない。そこには同志を求めて、追われ、迫害されて、尚お、真実に殉じた戦士があったか知れない。 彼等は、この憧憬と情熱とのみが、芸術に於て、運動に於て、同じく現実に虐げられ、苦しみつゝある・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・ 彼等にせめて、一日のうち、もしくは、一週間のうち幾何かの間を、全く、交通危険に晒らされることから解放して、自由に跳躍し遊戯せしむることを得せしめるのは、たゞそれだけで意義のあることではないか。また暑中休暇の期間だけ、閑静な処にて自然に・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・「長崎あたりに来ているロシア人は、ポケットに、もはや幾何しかの金がなくても、それを憂えずに、人生について論議している……」と、いうような話をきいたことがある。その時も、私は、感激を覚えたのです。 何となく私には、幽暗なロシア――・・・ 小川未明 「自分を鞭打つ感激より」
・・・ 思うに、半分は、屑とされて消滅し、半分は、自然消滅に帰するものと考えられますが、その中、幾何良書として後世にまで残存するであろうか。印刷術と製本術とが、機械でされるようになって以来、生産の簡易化は、全く書物に対する考え方を変えてしまい・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・そう思って、新吉は世相の表面に泛んだ現象を、出来るだけ多く作品の中に投げ込んでみたのだが、多角形の辺を増せば円になるというのは、幾何学の夢に過ぎないのではなかろうか。しかし、円い玉子も切りようで四角いということもあろう。が、その切りようが新・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・「否エ妾になれって明白とは言わないけれど、妾々ッて世間で大変悪く言うが芸者なんかと比較ると幾何いいか知れない、一人の男を旦那にするのだからって……まあ何という言葉でしょう……私は口惜くって堪りませんでしたの。矢張身を売るのは同じことだと・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・如く絶望し、手足も動かせぬようになったけれども、さてあるべきではありませぬから、自分たちも今度は滑って死ぬばかりか、不測の運命に臨んでいる身と思いながら段下りてまいりまして、そうして漸く午後の六時頃に幾何か危険の少いところまで下りて来ました・・・ 幸田露伴 「幻談」
出典:青空文庫