・・・で「斯んな広いお邸宅の静かな室で、午睡でもしていたいものだ」と彼はだら/\流れ出る胸の汗を拭き/\、斯んなことを思いながら、息を切らして歩いて行った。左り側に彼が曾て雑誌の訪問記者として二三度お邪魔したことのある、実業家で、金持で、代議士の・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 私の坐っているところはこの村でも一番広いとされている平地の縁に当っていた。山と溪とがその大方の眺めであるこの村では、どこを眺めるにも勾配のついた地勢でないものはなかった。風景は絶えず重力の法則に脅かされていた。そのうえ光と影の移り変わ・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ 十五、六人の人数と十頭の犬で広い野山谷々を駆けまわる鹿を打つとはすこぶるむずかしい事のようであるが、元が崎であるから山も谷も海にかぎられていて鹿とてもさまで自由自在に逃げまわることはできない、また人里の方へは、すっかり、高い壁が石で築・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・これには広い人生の海があり、はかり知れない運命の地平線があるのであって、決して一概に狭く固く考えるべきではない。多くの秀れた人々の伝記を読むのに一生にただ一つの愛しか持たないというような例は稀である。そこには苦痛を忘却さしてくれるいわゆるレ・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ 丘のふもとに、雪に埋れた広い街道がある。雪は橇や靴に踏みつけられて、固く凍っている。そこへ行くまでに、聯隊の鉄条網が張りめぐらされてあった。彼は、毎晩、その下をくぐりぬけ、氷で辷りそうな道を横切って、ある窓の下に立ったのであった。・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・特に今、母はお浪の源三を連れて帰って来たのを見て、わたしはちょいと見廻って来るからと云って、少し離れたところに建ててある養蚕所を監視に出て行ったので、この広い家に年のいかないもの二人限であるが、そこは巡査さんも月に何度かしか回って来ないほど・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 俺はその時、フト硝子戸越しに、汚い空地の隅ッこにほこりをかぶっている、広い葉を持った名の知れない草を見ていた。四方の建物が高いので、サン/\とふり注いでいる真昼の光が、それにはとゞいていない。それは別に奇妙な草でも何んでもなかったが―・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・「お前はお前、次郎ちゃんは次郎ちゃんでいい。広い芸術の世界だもの――みんながみんな、そう同じような道を踏まなくてもいい。」 と、私は答えた。 子供の変わって行くにも驚く。三郎も私に向かって、以前のようには感情を隠さなくなった。め・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・けれども芸術上の自然主義はもっと広い。また芸術は必して直接にわれらの実行生活を指揮し整理する活動でもない。六 余論としてここに一言を要するのは、史上にいわゆる人生観上の自然主義である。過去において明らかにかような名辞を用いた・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・それがみんな清い空気と河の広い見晴しとに、不思議に引寄せられているのである。文明の結果で飾られていても、積み上げた石瓦の間にところどころ枯れた木の枝があるばかりで、冷淡に無慈悲に見える町の狭い往来を逃れ出て、沈黙していながら、絶えず動いてい・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫