・・・が、池はもう温んだらしい底光りのする水の面に、堤をめぐった桜や柳を鮮にじっと映したまま、いつになっても竜などを天上させる気色もございません。殊にそのまわりの何里四方が、隙き間もなく見物の人数で埋まってでもいるせいか、今日は池の広さが日頃より・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・と見ると鯱に似て、彼が城の天守に金銀を鎧った諸侯なるに対して、これは赤合羽を絡った下郎が、蒼黒い魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。 かばかりの大石投魚の、さて価値といえば、両を出ない。七八十銭に過ぎないことを、あとで聞い・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・睫毛の長い眼は青味勝ちに澄んで底光り、無口な女であった。 高等学校の万年三年生の私は、一眼見て静子を純潔で知的な女だと思い込み、ランボオの詩集やニイチェの「ツアラトウストラ」などを彼女に持って行くという歯の浮くような通いかたをした挙句、・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 生意気な』と老人は底光りのする目を怒らして一喝した。そうすると黙ってそばに見ていた孫娘が急に老人の袖を引いて『お祖父さん帰りましょうお宅へ、ね帰りましょう』と優しく言った。僕はそれにも頓着なく『失敬だ、非常に失敬だ!』と叫んでわが満身・・・ 国木田独歩 「初恋」
・・・いちど、いやな恐るべき実体を見てしまった芸術家は、それに拠っていよいよ人生観察も深くなり、その作品も、所謂、底光りして来るようにも思われますが、現実は、必ずしもそうでは無いらしく、かえって、怒りも、憧れも、歓びも失い、どうでもいいという白痴・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・すべてがほの暗いそうして底光りのする雰囲気の中から浮き出した宝玉のようなものであった。 そうしてそのほかに一枚青衣の少女の合掌した半身像があった。これは両親と自分との居間のびかんに掲げられたままで長い年月を経た。中学の同級生のうちで自分・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・ 底光りのする空を縫った老樹の梢には折々梟が啼いている。月の光は幾重にも重った霊廟の屋根を銀盤のように、その軒裏の彩色を不知火のように輝していた。屋根を越しては、廟の前なる平地が湖水の面のように何ともいえぬほど平かに静に見えた。二重にも・・・ 永井荷風 「霊廟」
そらのてっぺんなんかつめたくてつめたくてまるでカチカチのやきをかけた鋼です。 そして星がいっぱいです。けれども東の空はもうやさしいききょうの花びらのようにあやしい底光りをはじめました。 その明け方の空の下、ひるの鳥でもゆかない・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・ その冷たい桔梗色の底光りする空間を一人の天が翔けているのを私は見ました。(とうとうまぎれ込んだ、人の世界私は胸を躍らせながら斯う思いました。 天人はまっすぐに翔けているのでした。(一瞬百由旬を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ 雲はうす黒く、ただ西の山のうえだけ濁った水色の天の淵がのぞいて底光りしています。そこで烏仲間でマシリイと呼ぶ銀の一つ星がひらめきはじめました。 烏の大尉は、矢のようにさいかちの枝に下りました。その枝に、さっきからじっと停って、もの・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
出典:青空文庫