・・・――その店先の雨明りの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへ後を向けたまま、もう入口に直した足駄へ、片足下している所だった。「旦那。工場から電話です。今日あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」 洋一が店へ来・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・わたしは格別急がずに店先の硝子戸をあけようとした。が、いつか硝子戸にわたしの頭をぶつけていた。この音には勿論職人たちをはじめ、わたし自身も驚かずにはいられなかった。 わたしは怯ず怯ず店の中にはいり、職人たちの一人に声をかけた。「……・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・が橋を渡って、泰さんの家の門口へやっと梶棒を下した時には、嬉しいのか、悲しいのか、自分にも判然しないほど、ただ無性に胸が迫って、けげんな顔をしている車夫の手へ、方外な賃銭を渡す間も惜しいように、倉皇と店先の暖簾をくぐりました。 泰さんは・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・彼れはこの店先きに自分の馬を引張って来る時の事を思った。妻は吸い取られるように暖かそうな火の色に見惚れていた。二人は妙にわくわくした心持ちになった。 蹄鉄屋の先きは急に闇が濃かくなって大抵の家はもう戸じまりをしていた。荒物屋を兼ねた居酒・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・きっと何だろう、店先へ買物にでも来たような風をして、親方の気のつかねえように、何かボソボソお上さんと内密話をしちゃ、帰って行くんだろう。なあ、どうだ三公、当ったろう?」 小僧は怪訝な顔をして、「俺はそんなとこを見たことはねえよ。だって、・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・冬の朝、黒門市場への買出しに廻り道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、連れ戻した。そして所望されるままに曾根崎新地のお茶屋へおちょぼ(芸者の下地ッ子にやっ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・まだ炎熱いので甲乙は閉口しながら渓流に沿うた道を上流の方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の談話しているのを見た。見て行き過ぎると、甲が、「今あの店にいたのは大友君じゃアなか・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳のころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈の低い肥えた漢子であった。その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽ぶような糸の音につれて謡う声が沈んで濁って淀んでい・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 暮れになって、呉服屋で誓文払をやりだすと、子供達は、店先に美しく飾りたてられたモスリンや、サラサや、半襟などを見て来てはそれをほしがった。同年の誰れ彼れが、それぞれ好もしいものを買って貰ったのを知ると、彼女達はなおそれをほしがった。・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ 饅頭を食べながら話を聞くと、この饅頭屋の店先には、娘に化けて手拭を被った張子の狐が立たせてあった。その狐の顔がそこの家の若い女房におかしいほどそっくりなので、この近在で評判になった。女房の方では少しもそんなことは知らないでいたが、先達・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫