・・・ やがてあの魔法使いが、床の上にひれ伏したまま、嗄れた声を挙げた時には、妙子は椅子に坐りながら、殆ど生死も知らないように、いつかもうぐっすり寝入っていました。 五 妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼に・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。「さっき、何だか奥の使いに行きました。――良さん。どこだか知らないかい?」「神山さんか? I don't know ですな。」 そう答えた店員は、上り框にしゃがんだまま、・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ それで私は少し安心して、若者の肩に手をかけて何かいおうとすると、若者はうるさそうに私の手を払いのけて、水の寄せたり引いたりする所に坐りこんだまま、いやな顔をして胸のあたりを撫でまわしています。私は何んだか言葉をかけるのさえためらわれて・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 僕達は若い女の先生に連れられて教場に這入り銘々の席に坐りました。僕はジムがどんな顔をしているか見たくってたまらなかったけれども、どうしてもそっちの方をふり向くことができませんでした。でも僕のしたことを誰も気のついた様子がないので、気味・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・ 水の出盛った二時半頃、裏向の二階の肱掛窓を開けて、立ちもやらず、坐りもあえず、あの峰へ、と山に向って、膝を宙に水を見ると、肱の下なる、廂屋根の屋根板は、鱗のように戦いて、――北国の習慣に、圧にのせた石の数々はわずかに水を出た磧であった・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・と、細君がまた銚子を持って出て来て、僕等のそばに座り込んだ。「奥さんがその楯になるつもりです、ね?」「そうやも知れまへん」と笑っている。 友人は真面目だ。「僕はなんでこないに勇気が出るか知らん思たんが気のゆるみで、急に寂しい・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・いよいよ坐り草臥びれると能く立膝をした。あぐらをかくのは田舎者である、通人的でないと思っていたのだろう。 それが皮切で、それから三日目、四日目、時としては続いて毎日来た。来れば必ず朝から晩まで話し込んでいた。が、取留めた格別な咄もそれほ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・と、その様子で察して、騒ぐのをやめて、傍に来て坐り自分も耳を傾ける。たとえ読まれる事柄の細かな筋はよく分らなくとも、部分、部分に、空想を逞うして同じく心を動かす。「お母さん、そして、どうなったのですか?」 こういう風に、自発的に、お・・・ 小川未明 「読んできかせる場合」
・・・の机のうしろに坐り、そして、来た順に並ばせていちいち住所、氏名、年齢、病名をきいて帖面へ控えた。一見どうでもよいことのようだったが、これが妙に曰くありげで、なかなか莫迦に出来ぬ思いつきだった。 お前はおかね婆さんの助手で、もぐさをひねっ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・身を切るような風吹きて霙降る夜の、まだ宵ながら餅屋ではいつもよりも早く閉めて、幸衛門は酒一口飲めぬ身の慰藉なく堅い男ゆえ炬燵へ潜って寝そべるほどの楽もせず火鉢を控えて厳然と座り、煙草を吹かしながらしきりに首をひねるは句を案ずるなりけり。・・・ 国木田独歩 「置土産」
出典:青空文庫