・・・と車掌の言葉に余儀なくされて、男のすぐ前のところに来て、下げ皮に白い腕を延べた。男は立って代わってやりたいとは思わぬではないが、そうするとその白い腕が見られぬばかりではなく、上から見おろすのは、いかにも不便なので、そのまま席を立とうともしな・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 一針縫うのに十五秒ないし三十秒かかるであろうし、それに針や糸を渡し受取り、布片を延べたり、○印を一つ選定したりするにもかれこれ此れと同じくらいはかかる。それであとからあとから縫い手が押しかけてくれればともかく、そうでないとすると一分に・・・ 寺田寅彦 「千人針」
・・・これを過ぐれば左に鳰の海蒼くして漣水色縮緬を延べたらんごとく、遠山模糊として水の果ても見えず。左に近く大津の町つらなりて、三井寺木立に見えかくれす。唐崎はあの辺かなど思えど身地を踏みし事なければ堅田も石山も粟津もすべて判らず。九つの歳父母に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ただ相違のある点は国民何千万人が総計延べ時間何億時間を消費し、そうして政府に何千万円の郵税を献納するか、しないかである。」 こんな好い加減の目の子勘定を並べてありふれの年賀状全廃説を称えていたが、本当はそういう国家社会の問題はどうでもよ・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・黄金を打ち延べたように作るのだということを芭蕉が教えたのは、やはり上記の方法をさして言ったものと思われる。 近ごろ映画芸術の理論で言うところのモンタージュはやはり取り合わせの芸術である。二つのものを衝き合わせることによって、二つのおのお・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・自分のさし延べている手をそのままの位置に保とうという意識に随伴して一種の緊張した感じが起こると同時にこれに比例して、からだのどこかに妙なくすぐったいようなたよりないような感覚が起こって、それがだんだんからだじゅうを彷徨し始めるのである、言わ・・・ 寺田寅彦 「笑い」
・・・風呂に入って汗を流し座敷に帰って足を延べた時は生き返ったようであるが、同時に草臥れが出てしもうて最早筆を採る勇気はない。其処でその夜は寐てしもうて翌朝になって文章を書いて新聞社に送って置く。そうして宿屋を出る時は最早九時にも十時にもなって居・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・ ずる、ずる、藍子のいるのもかまわず戸棚から布団を引きずり出して延べ、尾世川の背後にふせってしまう。そんなことが二三度あった。――もう五月であった。 或る日、藍子が尾世川の宿へ行くと、今しがた出たというところだった。 無駄足が惜・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。徳川将軍は名君の誉れの・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫