・・・ 後談 寛文十一年の正月、雲州松江祥光院の墓所には、四基の石塔が建てられた。施主は緊く秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建った時、二人の僧形が紅梅の枝を提げて、朝早く祥光院の門をくぐった。・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・土下座せんばかりの母親の挨拶などに対しても、父は監督に対すると同時に厳格な態度を見せて、やおら靴を脱ぎ捨てると、自分の設計で建て上げた座敷にとおって、洋服のままきちんと囲炉裡の横座にすわった。そして眼鏡をはずす間もなく、両手を顔にあてて、下・・・ 有島武郎 「親子」
・・・予は新たに建てらるべき第二の函館のために祝福して、秋風とともに焼跡を見捨てた。 札幌に入って、予は初めて真の北海道趣味を味うことができた。日本一の大原野の一角、木立の中の家疎に、幅広き街路に草生えて、牛が啼く、馬が走る、自然も人間もどこ・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・る、この鳥居の向うの隅、以前医師の邸の裏門のあった処に、むかし番太郎と言って、町内の走り使人、斎、非時の振廻り、香奠がえしの配歩行き、秋の夜番、冬は雪掻の手伝いなどした親仁が住んだ……半ば立腐りの長屋建て、掘立小屋という体なのが一棟ある。・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・丁度兄の伊藤八兵衛が本所の油堀に油会所を建て、水藩の名義で金穀その他の運上を扱い、業務上水府の家職を初め諸藩のお留守居、勘定役等と交渉する必要があったので、伊藤は専ら椿岳の米三郎を交際方面に当らしめた。 伊藤は牙籌一方の人物で、眼に一丁・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ほかのものであるならば、紙幣を焼いたならば紙幣を償うことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝って成ったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。死んだものはモウ活き帰・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・人間は、馬や、牛や、犬や、ねこのために、病院まで建ててやっているのに、私たちの病院というようなものを、まだ建てていない。こうした大不公平は、ここに挙げ尽くされないほどある。これに対して、あなたがた同様、私たちが、黙っているものですか。」と、・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・私は禁酒会へはいってから毎月十円ずつしてきた禁酒貯金がもうそのころ千円を越していたので、それで葬式をして、父の墓を建てました。そして八月の十日には父の残した老妻と二人で高野山へ父の骨を納めに行った。昭和十六年の八月の十日、中之島公園で秋山さ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・何度も建てなおされた家で、ここでは次男に鍛冶屋させるつもりで買ってきて建てたんだが、それが北海道へ行ったもんで、ただうっちゃらかしてあるんでごいす。これでも人がはいってピンと片づけてみなせ、本当に見違えるようになるで……」 久助爺はけろ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・それは大阪の市が南へ南へ伸びて行こうとして十何年か前までは草深い田舎であった土地をどんどん住宅や学校、病院などの地帯にしてしまい、その間へはまた多くはそこの地元の百姓であった地主たちの建てた小さな長屋がたくさんできて、野原の名残りが年ごとに・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
出典:青空文庫