・・・ 理非曲直も弁えずに、途方もない夢ばかり見続けている、――そこが高平太の強い所じゃ。小松の内府なぞは利巧なだけに、天下を料理するとなれば、浄海入道より数段下じゃ。内府も始終病身じゃと云うが、平家一門のためを計れば、一日も早く死んだが好い。そ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・最後にその二等と三等との区別さえも弁えない愚鈍な心が腹立たしかった。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云う心もちもあって、今度はポッケットの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。するとその時夕刊の紙面に落ちていた外・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ややともすると所も弁えずに熱い涙が眼がしらににじもうとした。それは悲しさの涙でもあり喜びの涙でもあったが、同時にどちらでもなかった。彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くし出すと、妙に胸がわくわくして来て、急に深淵のような深い静かさが心を襲っ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 魂の請状を取ろうとするのでありますから、その掛引は難かしい、無暗と強いられて篠田は夢現とも弁えず、それじゃそうよ、請取ったと、挨拶があるや否や、小宮山は篠田の許を辞して、一生懸命に駈出した、さあ荷物は渡した、東京へ着いたわ、雨も小止み・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 何しろ社交上の礼儀も何も弁えない駈出しの書生ッぽで、ドンナ名士でも突然訪問して面会出来るものと思い、また訪問者には面会するのが当然で、謝絶するナゾとは以ての外の無礼と考えていたから、何の用かと訊かれてムッとした。「何の用事もありま・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・マルクスの思想をも一と通りは弁えていた。が、畢竟は談理を好む論理遊戯から愛読したので、理解者であったが共鳴者でなかった。書斎の空想として興味を持っても実現出来るものともまた是非実現したいとも思っていなかった。かえってこういう空想を直ちに実現・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・科学的精神を尊重するなら、この社会をより善くすることに於てのみ個人を善くする理義を弁えて、自己享楽を捨てようとはしないのか。 若し、現時の我が文壇多くの芸術家が、人道を尊重し、愛を説き、正義に味方することを信念として、尚お、其の実、個人・・・ 小川未明 「芸術は革命的精神に醗酵す」
・・・それがまたまじめで、健康で、生活とか人生とかいうことの意味を深く弁えている哲人のようにも、彼には思われたりした。そしてこの春福島駅で小僧を救った――時の感想が胸に繰返された。「そうだ! 田舎へ帰るとああした事件や、ああした憫れな人々もた・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・「彼の島の者ども、因果の理をも弁えぬ荒夷なれば、荒く当りたりし事は申す計りなし」「彼の国の道俗は相州の男女よりも怨をなしき。野中に捨てられて雪に肌をまじえ、草を摘みて命を支えたりき」 かかる欠乏と寂寥の境にいて日蓮はなお『開目鈔・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・実はぜんざいの何物たるかをさえ弁えぬ。汁粉であるか煮小豆であるか眼前に髣髴する材料もないのに、あの赤い下品な肉太な字を見ると、京都を稲妻の迅かなる閃きのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜のごとく干枯びて死んでしまった。・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
出典:青空文庫