・・・道の片側は鉄漿溝に沿うて、廓者の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町との非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋が見えた。道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立ってい・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・後になって当夜の事をきいて見ると、春浪さんは僕等三人が芸者をつれて茶亭に引上げたものと思い、それと推測した茶屋に乱入して戸障子を蹴破り女中に手傷を負わせ、遂に三十間堀の警察署に拘引せられたという事であった。これを聞いて、僕は春浪さんとは断乎・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ その秋余は西片町を引き上げて早稲田へ移った。長谷川君と余とはこの引越のためますます縁が遠くなってしまった。その代り君の著作にかかる「其面影」を買って来て読んだ。そうして大いに感服した。(ある意味から云えば、今でも感服している。ここに余・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・ 今その然る所以の理由を述べんに、婦人の地位の低きとは、男子に対して低きことなれば、これを引上げて高き処に置かんとするに当たり、第一着に心頭に浮ぶものは、とにかくに、今の婦人をして今の男子の如くならしめんとするの思想なるべし。然り而して・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・があ、兵曹長。その死骸を営舎までもって帰るように。があ。引き揚げっ。」「かしこまりました。」強い兵曹長はその死骸を提げ、烏の大尉はじぶんの杜の方に飛びはじめ十八隻はしたがいました。 杜に帰って烏の駆逐艦は、みなほうほう白い息をはきま・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・みんな早く引き揚げてくれ。おい、ブドリ、お前ここにいたかったらいてもいいが、こんどはたべ物は置いてやらないぞ。それにここにいてもあぶないからな。お前も野原へ出て何かかせぐほうがいいぜ。」 そう言ったかと思うと、もうどんどん走って行ってし・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・数艘、漁船が引上げられ、干されている。彼等はその辺から村の街道へ登るわけだ。跟いて来た犬は、別れが近づいたのを知ったように、盛にその辺を跳ね廻った。父の手許にとびつくようにする。父は周章てて包みを高くさし上げ体を避けようとする拍子に、ぎごち・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・そこをよけて、仕事から引上げて来る労働者、交代に行く労働者。人通りは絶えない。 木橋を境にして、九千人の従業員をもつモスク第一の金属工場「鎌と鎚」が、蜒々と煉瓦壁をのばしている。「郵便」と書いた板の出ている小さい入口をわれわれは入っ・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
・・・それから火を踏み消して、あとを水でしめして引き上げた。台所にいた千場作兵衛、そのほか重手を負ったものは家来や傍輩が肩にかけて続いた。時刻はちょうど未の刻であった。 光尚はたびたび家中のおもだったものの家へ遊びに往くことがあったが、阿・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・川を渡ったり、杉の密集している急な崖をよじ登ったりして、父の発砲する音を聞いていたが、氷の張りつめた小川を跳び越すとき、私は足を踏み辷らして、氷の中へ落ち込み、父から襟首を持って引き上げられた。それから二度と父はもう私をつれて行ってはくれな・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫