・・・「おい、支度をしろ、今日のうちに、引越してしまおう」 おど、おどしている女房に、こう云った利平は、先刻までの、自信がすっかりなくなってキョロキョロしていた。 徳永直 「眼」
・・・始めて引越して来たころには、近処の崖下には、茅葺屋根の家が残っていて、昼中もにわとりが鳴いていたほどであったから、鐘の音も今日よりは、もっと度々聞えていたはずである。しかしいくら思返して見ても、その時分鐘の音に耳をすませて、物思いに耽ったよ・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・「君、引越しでもするのか。」 この声の誰であるかを聞きわけて、唖々子は初めて安心したらしく、砂利の上に荷物を下したが、忽命令するような調子で、「手伝いたまえ。ばかに重い。」「何だ。」「質屋だ。盗み出した。」「そうか。・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・そんなにたびたび引越しをしたら身代限をするばかりだ」「しかし病人は大丈夫かい」「君まで妙な事を言うぜ。少々伝通院の坊主にかぶれて来たんじゃないか。そんなに人を威嚇かすもんじゃない」「威嚇かすんじゃない、大丈夫かと聞くんだ。これで・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・或日亭主と神さんが出て行って我輩と妹が差し向いで食事をしていると陰気な声で「あなたもいっしょに引越して下さいますか」といった。この「下さいますか」が色気のある小説的の「下さいますか」ではない。色沢気抜きの世帯染た「下さいますか」である。我輩・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ 私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ こんなことだと分ってりゃ引越してなんぞ来なかったんです。」 流行もなにもないぼってりした恰好で、後れ毛を頬にたらした無学なおとなしいグラフィーラは、自分達の家庭へ他人があばれ込むのも制御出来ない。而も、彼女は今辛い心持をやっと押えてい・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・ 三 きのうの相場 一月の中ごろに、引越しをして小さな家を持った。これまで家を持たなかったわけではないから、いろいろな世帯道具は大体古くからのがあったが、鍋や釜、火箸、金じゃくし、灰ふるい、五徳、やかんの類は、・・・ 宮本百合子 「打あけ話」
・・・物置はそのために隅々までしらべられ、もう十七年も前、駒沢の家から外国旅行に出るとき、遑しい引越し荷物の一部として石油の空かんにつめられた古雑誌も出て来た。どの雑誌も厚くて、いい紙がつかわれていて、昭和二年頃のものである。 ・・・ 宮本百合子 「折たく柴」
・・・ 赤衛兵と、引越したのか? そうじゃあるめえなどと云い合った後、その男は云った。「じゃ、左の第一番目の戸をあけて見なさい」 外からの気勢では到って静かだ。ソーッとあけて見た。いる! いる! つき当りの壁から左へ鍵のてに卓子が・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
出典:青空文庫