・・・ 僕は詮めに近い心を持ち、弥生町の寄宿舎へ帰って来た。窓硝子の破れた自習室には生憎誰も居合せなかった。僕は薄暗い電燈の下に独逸文法を復習した。しかしどうも失恋した彼に、――たとい失恋したにもせよ、とにかく叔父さんの娘のある彼に羨望を感じ・・・ 芥川竜之介 「彼」
もとの邸町の、荒果てた土塀が今もそのままになっている。……雪が消えて、まだ間もない、乾いたばかりの――山国で――石のごつごつした狭い小路が、霞みながら一条煙のように、ぼっと黄昏れて行く。 弥生の末から、ちっとずつの遅速はあっても、・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・もみじのような手を胸に、弥生の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪の声にのみ耳を澄ませば、生憎待たぬ時鳥。鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。 母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 主婦に大目玉をくった事があるんだけれど、弥生は里の雛遊び……は常磐津か何かのもんくだっけ。お雛様を飾った時、……五人囃子を、毬にくッつけて、ぽんぽんぽん、ころん、くるくるなんだもの。 ところがね、真夜中さ。いいえ、二人はお座敷へ行・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・どれも、食ものという形でなく、菜の葉に留まれ蝶と斉しく、弥生の春のともだちに見える。…… 袖形の押絵細工の箸さしから、銀の振出し、という華奢なもので、小鯛には骨が多い、柳鰈の御馳走を思出すと、ああ、酒と煙草は、さるにても極りが悪い。・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・雛市は弥生ばかり、たとえば古道具屋の店に、その姿があるとする。……心を籠めて、じっと凝視るのを、毎日のように、およそ七日十日に及ぶと、思入ったその雛、その人形は、莞爾と笑うというのを聞いた。――時候は覚えていない。小学校へ通う大川の橋一つ越・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
はしがき 武田さんのことを書く。 ――というこの書出しは、実は武田さんの真似である。 武田さんは外地より帰って間もなく「弥生さん」という題の小説を書いた。その小説の書出しの一行を読んだ時私はどきんと・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ ハナヤはもと千日前の弥生座の筋向いにあった店だが、焼けてしまったので、この場所へ新らしくバラックを建てたらしかった。 バラックだが、安っぽい荒削の木材の生なましさや、俗々しいペンキ塗り立ての感じはなく、この界隈では垢抜けした装飾の・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・「お前のあばれ者は研究所でも評判だというじゃないか。」「だれが言った――」「弥生町の奥さんがいらしった時に、なんでもそんな話だったぜ。」「知りもしないくせに――」 次郎が私に向かって、こんなふうに強く出たことは、あとにも・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・あの池から、一つの狭い谷が北のほうへ延びて、今の動物地質教室の下から弥生町の門のほうへ続いていた事が、土工の際に明らかになったそうである。この池の地学的の意味についても、構内のボーリングの結果などを総合して考えてみたら、あるいは何事かわかり・・・ 寺田寅彦 「池」
出典:青空文庫