・・・頭はむさ苦しく延び煤けているかと思うと、惜しげもなくクリクリに剃りこぼしたままを、日に当てても平気でいる。 着物は何処かの小使のお古らしい小倉の上衣に、渋色染の股引は囚徒のかと思われる。一体に無口らしいが通りがかりの漁師などが声をかけて・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・……何でも秋山さんは深い水の底にあった、大きな木の株に挟まっていたそうでね、忰は首尾よく秋山さんを捜しあてたにゃ当てたけれど、体へ掴まられたんで、どうにも恁にも足が取れなくなって了ったものなんだ。いくら泳ぎが巧くたって大の男に死物狂いで掴ま・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・事後に局面を急転せしむる機智親切もなく、いわば自身で仕立てた不孝の子二十四名を荒れ出すが最後得たりや応と引括って、二進の一十、二進の一十、二進の一十で綺麗に二等分して――もし二十五人であったら十二人半宛にしたかも知れぬ、――二等分して、格別・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 利平は、女房の口に手を当てて、黙らせた。「さぁ、引ッ込め、障子を閉めろ」 利平は、障子に手を掛けたとき、ひょいとモ一度、利助の方を見た。 そのとき、知っていたのかどうか、利助は着物を着ながら、此方を振り向いた。そしてじっと・・・ 徳永直 「眼」
・・・わたくしは行先の当てもなく漫然散策していた途上であった。二君はこの日午前より劇場に在って演劇の稽古の思いの外早く終ったところから、相携えてこの店に立寄られたのだと云う。店の主人は既にわたくしとは相識の間である。偶然の会合に興を得て店頭の言談・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・赤は地鼠の通った穴を探し当てたものか蕎麦の中を駈け歩いた。赤の体が触れて蕎麦の花が先へ先へと動いた。暫く経つと赤はすっと後足で蕎麦の花の中から立つ。そうして文造を見つけていきなりばらばらと駈けて来る。鼻先は土で汚れて居る。赤は恐ろしい威勢の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・巡査はその赤い火を焼くまでに余の頬に押し当てて「悪るいから御気を付けなさい」と言い棄てて擦れ違った。よく注意したまえと云った津田君の言葉と、悪いから御気をつけなさいと教えた巡査の言葉とは似ているなと思うとたちまち胸が鉛のように重くなる。あの・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・四ツ角を曲る時は、いつも三遍宛ぐるぐる回った。そんな馬鹿馬鹿しい詰らぬことが、僕には強迫的の絶対命令だった。だが一番困ったのは、意識の反対衝動に駆られることだった。例えば町へ行こうとして家を出る時、反対の森の方へ行ってるのである。最も苦しい・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・これが昼間見たのだったら何の不思議もなくて倉庫につけられた非常階段だと思えるだろうし、又それほどにまで気を止めないんだろうが、何しろ、私は胸へピッタリ、メスの腹でも当てられたような戦慄を感じた。 私は予感があった。この歪んだ階段を昇ると・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 平田は額に手を当てて横を向いた。西宮と小万は顔を見合わせて覚えず溜息を吐いた。「ああ、つまらないつまらない」と、吉里は手酌で湯呑みへだくだくと注ぐ。「お止しと言うのに」と、小万が銚子を奪ろうとすると、「酒でも飲まないじゃア……・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫