・・・「そんな事は当り前だ。」「じゃお母さんでも死んだら、どうする?」 歩道の端を歩いていた兄は、彼の言葉に答える前に、手を伸ばして柳の葉をむしった。「僕はお母さんが死んでも悲しくない。」「嘘つき。」 洋一は少し昂奮して云・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「温度の異なる二つの物体を互に接触せしめるとだね、熱は高温度の物体から低温度の物体へ、両者の温度の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるんだ。」「当り前じゃないか、そんなことは?」「それを伝熱作用の法則と云うんだよ。さて女を物体と・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・ もしそこへ出たのが、当り前の人間でなくて、昔話にあるような、異形の怪物であっても、この刹那にはそれを怪み訝るものはなかったであろう。まだ若い男である。背はずっと高い。外のものが皆黒い上衣を着ているのに、この男だけはただ白いシャツを着て・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・一等の切符さえ有れあ当り前じゃないか。A 莫迦を言え。人間は皆赤切符だ。B 人間は皆赤切符! やっぱり話せるな。おれが飯屋へ飛び込んで空樽に腰掛けるのもそれだ。A 何だい、うまい物うまい物って言うから何を食うのかと思ったら、一膳・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・……血の気の多い漁師です、癪に触ったから、当り前よ、と若いのが言うと、(人間の食うほどは俺と言いますとな、両手で一掴みにしてべろべろと頬張りました。頬張るあとから、取っては食い、掴んでは食うほどに、あなた、だんだん腹這いにぐにゃぐにゃと首を・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・「旦那さん、――この人は、家が伊那だもんでございますから。」「はあ、勝頼様と同国ですな。」「まあ、勝頼様は、こんな男ぶりじゃありませんが。」「当り前よ。」 とむッつりした料理番は、苦笑いもせず、またコッツンと煙管を払く。・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・戸は無造作にあいたが、這入る足は重い。当り前ならば、尋ねる友人の家に著いたのであるから、やれ嬉しやと安心すべき筈だに、おかしく胸に不安の波が騒いで、此家に来たことを今更悔いる心持がするは、自分ながら訳が解らなかった。しかし此の際咄嗟に起った・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・小癪な娘だけにだんだん焼けッ腹になって来るのは当り前だろう。「あの青木の野郎、今度来たら十分言ってやらにゃア」と、お貞が受けて、「借金が返せないもんだから、うちへ来ないで、こそこそとほかでぬすみ喰いをしゃアがる!」 子供はふたりとも・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「そうね。金さんは元から熱湯好きだったね。だけど、酔ってる時だけは気をおつけよ、人事じゃないんだよ」「大きに! まだどうも死ぬにゃ早いからな」「当り前さ、今から死んでたまるものかね。そう言えば、お前さん今年幾歳になったんだっけね・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ているが、あいつはばかだよと坂口安吾が言うと、太宰治はわれわれの小説は女を口説く道具にしたくっても出来ないじゃないか、われわれのような小説を書いていると、女が気味悪がって、口説いてもシュッパイするのは当り前だよ、と津軽言葉で言った。私はこと・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫