・・・そんな調子だったから、お辰はあれでは蝶子が可哀想やと種吉に言い言いしたが、種吉は「坊ん坊んやから当り前のこっちゃ」別に柳吉を非難もしなかった。どころか、「女房や子供捨てて二階ずまいせんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」とか・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・よほど綺麗な人でも、人は誰でも好意をもってくれるのが当り前のように思っているとひどい目にあうことがある。また相手の財産などあまりあてにならぬ。何故なら今日の世態ではよほどの財産でない限り、やがてじきになくなるからだ。相手の人格と才能とをたの・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・俺の場合、それは運動不足からくるむくみでも何んでもなく、はじめて身体が当り前にかえって行くこの上もない健康からだった。 俺だちの仲間は、今でも刑務所へ行くことを「別荘行」と云っている。ドンな場合でも決して屈することのないプロレタリアの剛・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・と、一番先きに顔を出したスパイが、妹の名を云って、いるかときいた。そのスパイは前から顔なじみだった。母は「いるよ。」と、当り前で云ってから、「あれがどうしたのかね?」と問うた。スパイはそれには何も云わずに、「いるんだね」と念を押して、上がり・・・ 小林多喜二 「母たち」
所謂社会主義の世の中になるのは、それは当り前の事と思わなければならぬ。民主々義とは云っても、それは社会民主々義の事であって、昔の思想と違っている事を知らなければならぬ。倫理に於いても、新しい形の個人主義の擡頭しているこの現・・・ 太宰治 「新しい形の個人主義」
・・・「そりゃ商売ですもの、当り前だわ。だけど、それだけでも無いんじゃない? あなたは、あのおかみさんを、かすめたでしょう」「昔ね。おやじは、どう? 気附いているの?」「ちゃんと知っているらしいわ。いろも出来、借金も出来、といつか溜息・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・実際どれを見ても、当り前な事だが、みんな自分よりは上手な人ばかりである。しかしその上手な点を「頭」へ矢つぎ早に受け込んで、そして一々感服する方がとかく主になってしまって、何かしらしみじみと「胸」に滲み込んでくるような感じが容易には起りにくい・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・上の男の子はあの頃四つくらいで名はエンリコとかいうそうだが、当り前の和服を着て近所の子供と遊んでいるのを見ては混血児と思われぬようであった。黒田はこの児を大変に可愛がってエンチャン/\と親しんでいた。父親が金をこしらえあげた暁にこの児の運命・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・人間はやはり当り前の人間で善かりそうなものだのに。と答えてこれもからからと笑う。 余は晩餐前に公園を散歩するたびに川縁の椅子に腰を卸して向側を眺める。倫敦に固有なる濃霧はことに岸辺に多い。余が桜の杖に頤を支えて真正面を見ていると、遥かに・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・本を読むにしてもAと云う言葉とBと云う言葉とそれからCという言葉が順々に並んでいればこの三つの言葉を順々に理解して行くのが当り前だからAが明かに頭に映る時はBはまだ意識に上らない。Bが意識の舞台に上り始める時にはもうAの方は薄ぼんやりしてだ・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫