・・・「冗談云うない。俺だって一晩中立ち通したかねえからな」「冗談云うない。俺だってバスケットを坐らせといて立っていたくねえや」「チョッ、喧嘩にもならねえや」「当り前さ」 少年は眼を開いた。そして彼をレンズにでも収めるように、・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・「チェッ、電気ブランでも飲んで来やがったんだぜ。間抜け奴!」「当り前よ。当り前で飲んでて酔える訳はねえや。強い奴を腹ん中へ入れといて、上下から焙りゃこそ、あの位に酔っ払えるんじゃねえか」「うまくやってやがらあ、奴あ、明日は俺達よ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・さて、当り前なら手紙の初めには、相手の方を呼び掛けるのですが、わたくしにはあなたの事を、どう申上げてよろしいか分かりません。「オオビュルナン様」では余りよそよそしゅうございます。「尊い先生様」では気取ったようで厭でございます。「愛する友よ」・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・此の事情のために若い少女達まで、いつの間にか闇は当り前。要領をうまくして、少しでもどっさり手に入れる方が得だというような考に、いつしか馴らされてしまっているのではないでしょうか。 女の人は今まで社会的に大変下手に出るよう馴らされて来てい・・・ 宮本百合子 「美しく豊な生活へ」
・・・くような時代に生き合わせて、受け身に只管失敗のないよう、間違いないようとねがいつつ女の新しい一歩を歩み出そうとしたって、自身の未熟さを思えばそれは手も足もどこに向って伸してよいか分らないようになるのが当り前と思う。目の先三寸の功利的な見とお・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
・・・高い方の山は、相間々々にぽつぽつ遣れば好い為事である。当り前の分担事務の外に、字句の訂正を要するために、余所の局からも、木村の処へ来る書類がある。そんなのも急ぎでないのはこの中に這入っている。 書類を持ち出して置いて、椅子に掛けて、木村・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・昔の人が真実だと思っていた、神霊の存在を、今の人が嘘だと思っているのを、世間の人は当り前だとして、平気でいるのではあるまいか。随ってあらゆる祭やなんぞが皆内容のない形式になってしまっているのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。又子・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・手前、あっこへのたり込むのが当り前じゃ。」「あかん、あかん。」と云って安次は頭の横で泳ぐように両手を振った。「ぐずぐずぬかすな!」 秋三が安次の首筋を持って引き立てると、安次は胸を突き出して、「アッ、アッ。」と苦しそうな声を立て・・・ 横光利一 「南北」
・・・それほど何げのない、なだらかな、当たり前の形をしているからである。しかるにその、「なんにもない」と思われていた形の中から、対立者に応じて溌剌としたものが湧き出て来る。たとえば桜田門がそれである。あの門外でながめられるお濠の土手はかなりに高い・・・ 和辻哲郎 「城」
・・・しかし日本の芸術家にはきわめて当たり前のことであった。否、そのほかに統一をつくる仕方はなかったのである。 第二に我々の気づいたことは、人形の動作がいかに鋭い選択によって成っているかということであった。この選択は必ずしも今の名人がやったの・・・ 和辻哲郎 「文楽座の人形芝居」
出典:青空文庫