・・・ よき物まいらせんとてかの君手さげの内を探りたまいしが、こはいかに宝丹を入れ置きぬと覚えしにと当惑のさまを、貴嬢は見たまいて、いなさまでに候わずとしいて取り繕わんとなしたもうがおかしく、その時もしわが顔に卑下の色の動きたりせば恕したまえ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 然し母と妹との節操を軍人閣下に献上し、更らに又、この十五円の中から五円三円と割いて、母と妹とが淫酒の料に捧げなければならぬかを思い、さすがお人好の自分も頗る当惑したのである。 酒が醒めかけて来た! 今日はここで止める。 五月六・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・確かにわれわれが倫理的な問いを持つにいたった痛切な原因にはこの時と処と人とによってモラールが異なるところに発する不安と当惑とがあるのである。 これに対してリップスはいう。一つの比論をとれば、物理的真理において、真理そのものを万物の真相は・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 田口は、何か訳の分らないことを呟いて、当惑そうな色を浮べた。そして、こゝから又セミヤノフカへ一個大隊分遺される、兵士が足らなくて困っている、それに関する訓令を持って来た、と云った。一個大隊分遣される、それゃ、内地へ帰る傷病者の知ったこ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・猫が見つけられて当惑そうにないた。それは、鼻先きで飯櫃の蓋を突き落しかけていた家無し猫だった。寒さに、おしかが大儀がって追いに行かずにいると猫は再び蓋をごとごと動かした。「くそっ! 飯を喰いに来やがった!」おしかは云って追っかけた。猫は・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・差当って彼も少年らしい当惑の色を浮めたが、予にも好い思案はなかった。イトメは水を保つに足るものの中に入れて置かねば面白くないのである。 やっぱり小父さんが先刻話したようにした方が宜い。明日また小父さんに遇ったら、小父さんその時に少しおく・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・やがて雨さえ降って来て、家内も、母も、妹も、いい町です、落ち附いたいい町です、と口ではほめていながら、やはり当惑そうな顔色は蔽うべくもなく、私は、たまりかねて昔馴染みの飲み屋に皆を案内しました。あまり汚い家なので、門口で女達はためらって居ま・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 井伏さんも、その日、よっぽど当惑した御様子で、私と一緒に省線で帰り、阿佐ヶ谷で降り、改札口を出て、井伏さんは立ち止り、私の方にくるりと向き直って、こうおっしゃった。「よかったねえ。どうなることかと思った。よかったねえ。」 早稲・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・地図をあてにする人間が地図にない道に出逢ったほど当惑することはない。頭の中の実在と眼前の実在とが矛盾するのを発見する瞬間に自分の頭に対する信用が一度に消滅するのである。皮肉なことには地図にないような道路は最近に出来た最も立派なモーターロード・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・虎もだいぶ他の相手とは見当がちがうので閉口当惑のていである。蛇が虎のからだにじりじりと巻きつく速度が意外にのろい、それだけに無気味さが深刻である。蛇が蛇自身の目では見渡せないあの長いからだを、うまく舵を取って順序よく巻きついて行く手ぎわは見・・・ 寺田寅彦 「映画「マルガ」に現われた動物の闘争」
出典:青空文庫