・・・――もしこの時、良雄の後の障子に、影法師が一つ映らなかったなら、そうして、その影法師が、障子の引手へ手をかけると共に消えて、その代りに、早水藤左衛門の逞しい姿が、座敷の中へはいって来なかったなら、良雄はいつまでも、快い春の日の暖さを、その誇・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・おばあさまの影法師が大きくそれに映って、怪物か何かのように動いていた。ただおばあさまがぼくに一言も物をいわないのが変だった。急に唖になったのだろうか。そしていつものようにはかわいがってくれずに、ぼくが近寄ってもじゃま者あつかいにする。 ・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ 貧乏寺の一間を借りて、墓の影法師のように日を送る。―― 十日ばかり前である。 渠が寝られぬ短夜に……疲れて、寝忘れて遅く起きると、祖母の影が見えぬ…… 枕頭の障子の陰に、朝の膳ごしらえが、ちゃんと出来ていたのを見て、水を浴・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。 自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」「心細いじゃありませんか、ねえ。」 と寂しそうに打傾く、面に映って、頸をかけ、黒繻子の・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・……ここから門のすぐ向うの茄子畠を見ていたら、影法師のような小さなお媼さんが、杖に縋ってどこからか出て来て、畑の真中へぼんやり立って、その杖で、何だか九字でも切るような様子をしたじゃアありませんか。思出すわ。……鋤鍬じゃなかったんですもの。・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・……委しく言えば、昼は影法師に肖ていて、夜は明かなのであった。 さて、店を並べた、山茱萸、山葡萄のごときは、この老鋪には余り資本が掛らな過ぎて、恐らくお銭になるまいと考えたらしい。で、精一杯に売るものは。「何だい、こりゃ!」「美・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・小児四 影法師まで、ぶらぶらしているよ。小児五 重いんだろうか。小児一 何だ、引越かなあ。小児二 構うもんか、何だって。小児三 御覧よ、脊よりか高い、障子見たようなものを背負ってるから、凧が歩行いて来るようだ。小児四・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・月光に投げ出した僕の影法師も、僕には何だかおそろしかった。 なるべく通行者に近よらないようにして、僕はまず例のうなぎ屋の前を通った。三味の音や歌声は聴えるが、吉弥のではない。いないのか知らんと、ほかに当てのある近所の料理屋の前を二、三軒・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「せめてお光さんの影法師ぐらいのがあるだろうか?」「何だね、この人は! 私ゃ真面目で談してるんだよ」「俺も真面目さ」「まあ笑談は措いて、きっとこれから金さんの気に入ろうというのを世話するから、私に一つお任せなね」「そりゃ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 深い霧のなかを影法師のように過ぎてゆく想念がだんだん分明になって来る。 彼の視野のなかで消散したり凝聚したりしていた風景は、ある瞬間それが実に親しい風景だったかのように、またある瞬間は全く未知の風景のように見えはじめる。そしてある・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫