・・・義姉はというと、彼女は口を極めて桂三郎を賞めていた。で、また彼女の称讃に値いするだけのいい素質を彼がもっていることも事実であった。 とにかく彼らは幸福であった。雪江が私の机の側へ来て、雑誌などを読んでいるときに、それとなく話しかける口吻・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・と土地でいわれている彼女たちは、小刻みに前のめりにおそろしく早く歩く。どっちかの肩を前におしだすようにして、工場の門からつきとばされたいきおいで、三吉の左右をすりぬけてゆく。汗のにおい、葉煙草のにおい。さまざまな語尾のみじかいしゃべりやわら・・・ 徳永直 「白い道」
・・・われわれはあの女たちを哀れと思う時にのみ、彼女たちを了解し得るのだ。」といっている。近松の心中物を見ても分るではないか。傾城の誠が金で面を張る圧制な大尽に解釈されようはずはない。変る夜ごとの枕に泣く売春婦の誠の心の悲しみは、親の慈悲妻の情を・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ ビール箱の蓋の蔭には、二十二三位の若い婦人が、全身を全裸のまま仰向きに横たわっていた。彼女は腐った一枚の畳の上にいた。そして吐息は彼女の肩から各々が最後の一滴であるように、搾り出されるのであった。 彼女の肩の辺から、枕の方へかけて・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 若子さんは小さな声で、『兄さん、彼女の方は随分ですわねえ。』『女だから可いさ。』と、御兄さんは気にも御止めなさらない様でした。 其時、私は不図あの可哀相な――私が何となくそう思った――乳呑子を懐いた女の人を見出したのです。それ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・が、何だか自分に欠乏してる生命の泉というものが、彼女には沸々と湧いてる様な感じがする。そこはまア、自然かも知れんね――日蔭の冷たい、死というものに掴まれそうになってる人間が、日向の明るい、生気溌溂たる陽気な所を求めて、得られんで煩悶している・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・すると、彼女は急に厳粛な眼つきをし、「あら、ここの美味しいのよ」と真顔でいった。彼等は、往来を見ながらそこの小さい店で紅茶とサンドウィッチを食べた。 二 陽子が、すっかり荷物を持って鎌倉へ立ったのは・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・姉は沈んでいた。彼女はその日まだ良人から手紙を受けとっていなかった。暫くすると、灸の頭の中へ女の子の赤い着物がぼんやりと浮んで来た。そのままいつの間にか彼は眠ってしまった。 翌朝灸はいつもより早く起きて来た。雨はまだ降っていた。家々の屋・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・その眼の内には一撃に私を打ち砕き私を恥じさせるある物がありました、――私の欠点を最もよく知って、しかも私を自分以上に愛している彼女の眼には。 私はすぐ口をつぐみました。後悔がひどく心を噛み始めました。人を裁くものは自分も裁かれなければな・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫