・・・ 彼は故郷への思慕のあまり、五十町もある岨峻をよじて、東の方雲の彼方に、房州の浜辺を髣髴しては父母の墓を遙拝して、涙を流した。今に身延山に思恩閣として遺跡がある。「父母は今初めて事あらたに申すべきに候はねども、母の御恩の事殊に心肝に・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 雪は、その上へまた降り積った。 丘の家々は、石のように雪の下に埋れていた。 彼方の山からは、始終、パルチザンがこちらの村を覗っていた。のみならず、夜になると、歩哨が、たびたび狼に襲われた。四肢が没してもまだ足りない程、深い雪の・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・が、その母や、妹や、親爺は、今、どうしても手が届かない、遥かな彼方に彼とは無関係に生きているのだ。誰れも彼に憐れみの眼光を投げて呉れる者はなかった。看護卒は、たゞ忙しそうに、忙しいのが癪に障るらしく、ふくれッ面をして無慈悲にがたがたやってい・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ここは人家も少からず、町の彼方に秩父の山々近く見えて如何にも田舎びたれど、熊谷より大宮郷に至る道の中にて第一の賑わしきところなりとぞ。さればにや氷売る店など涼しげによろずを取りなして都めかしたるもあり。とある店に入り、氷に喉の渇を癒して、こ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・御相図と承わり、又御物ごしが彼方様其儘でござりましたので、……如何様にも私を御成敗下さりまして、……又此方様は、私、身を捨てましても、御引取いただくよう願いまして、然よう致しますれば……」と、今まで泣伏していた間に考えていたものと見えて・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・七「へえ……彼方へは往きません、面倒だから何処も往きません」殿「何かぐず/″\口の内で言っているな、浪々酌をしてやれ、もう一杯やれ」七「へえ、お酒なら否とは云いません」殿「其の方が久しく参らん内に私は役替を仰せ付けられて、上・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・髪の毛をレースのように編んで畳み込み、体の彼方此方に飾りを下げ、スバーの自然の美しさを代なしにするに一生懸命になりました。 スバーの眼は、もう涙で一杯です。泣いて瞼が腫れると大変だと思う母親は、きびしく彼女を叱りました。が、涙は小言など・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・あの人はいま、ケデロンの小川の彼方、ゲッセマネの園にいます。もうはや、あの二階座敷の夕餐もすみ、弟子たちと共にゲッセマネの園に行き、いまごろは、きっと天へお祈りを捧げている時刻です。弟子たちのほかには誰も居りません。今なら難なくあの人を捕え・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・楊樹の彼方に白い壁の支那民家が五、六軒続いて、庭の中に槐の樹が高く見える。井戸がある。納屋がある。足の小さい年老いた女がおぼつかなく歩いていく。楊樹を透かして向こうに、広い荒漠たる野が見える。褐色した丘陵の連続が指さされる。その向こうには紫・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。 島々からのバスの道路が次第次第に梓川の水面から高く離れて行く。ある地点では車の窓から見下ろされる断崖の高さが六百尺だといって女車掌が紹介する。それが・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
出典:青空文庫