・・・ 何処の浦辺からともなく波に漂うて打上がった木片板片の過去の歴史は波の彼方に葬られて、ここに果敢ない末を見せている。人の知らぬ熊さんの半生は頼みにならぬ人の心から忘られてしまった。遠くもない墓のしきいに流木を拾うているこのあわれな姿はひ・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・驚いて箸を持ったまま、思わず音のする彼方を見返ると、底びかりのする神秘な夜の空に、宵の明星のかげが、たった一ツさびし気に浮いているのが見える。枯れた樹の梢に三日月のかかっているのを見ることもある。 やがて日の長くなることが、やや際立って・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・辻を曲ると、道の片側には小家のつづいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつづいた彼方に太郎稲荷の森が見えた。吉原田圃はこの処をいったのである。裏田圃とも、また浅草田圃ともいった。単に反歩ともいったようである。 吉原・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・いいよ、君、彼方へ行っても好いよ」「ねえ。では御二人さんとも馬車で御越しになりますか」「そこが今悶着中さ」「へへへへ。八時の馬車はもう直ぐ、支度が出来ます」「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。ひとまず引き取ってく・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・貴方がたでもなければ彼方がたでもない、私は一個の夏目漱石というものを代表している。この時私はゼネラルなものじゃない、スペシァルなものである。私は私を代表している、私以外の者は一人も代表しておらない。親も代表しておらなければ、子も代表しておら・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・』『あらいやだ。』 若子さんは頓興に大きな声で、斯うお云いでしたから、何かと思うと、また学生がつい其処に立って居るのでした。『何だか可厭な人だわ。』『そうねえ。』『彼方へ行った方が可いね。』 若子さんが人と人との間を・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・上り端の四畳の彼方に三畳の小間がある。そこが夫婦の寝起きの場所で夕飯が始まったらしい。彼等も今晩は少しいつもと異った心持らしく低声で話し、間に箸の音が聞えた。 陽子はコーンビーフの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・私たちはそういう歴史の展望をも空想ではない未来の絵姿として自分の一つの生涯の彼方によろこびをもって見ているのも事実である。 未来の絵姿はそのように透明生気充満したものであるとしても、現在私たちの日常は実に女らしさの魑魅魍魎にとりまかれて・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・ただいとうにはゆるは彼方の親切にて、ふた親のゆるしし交際の表、かいな借さるることもあれど、ただ二人になりたるときは、家も園もゆくかたものういぶせく覚えて、こころともなく太き息せられても、かしら熱くなるまで忍びがとうなりぬ。なにゆえと問いたも・・・ 森鴎外 「文づかい」
・・・しかし、そういう物の一つも見えない水平線の彼方に、ぽっと射し露われて来た一縷の光線に似たうす光が、あるいはそれかとも梶は思った。それは夢のような幻影としても、負け苦しむ幻影より喜び勝ちたい幻影の方が強力に梶を支配していた。祖国ギリシャの敗戦・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫