・・・ 阿部定――東京尾久町の待合「まさき」で情夫の石田吉蔵を殺害して、その肉体の一部を斬り取って逃亡したという稀代の妖婦の情痴事件が世をさわがせたのは、たしか昭和十一年五月であったが、丁度その頃私はカフェ美人座の照井静子という女に、二十四歳・・・ 織田作之助 「世相」
・・・龍介は停車場の前まで戻ってきてみた。待合室はガランとしていてストーヴが燃えていた。その前に、印も何も分らない半纒を着て、ところどころ切れて脛の出ている股引をはいた、赤黒い顔の男が立っていた。汚れた手拭を首にかけていた。龍介は今度は道をかえて・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・喫茶店。待合。いない、いない。醜くてすごいものばかり。オフィス、デパート、工場、映画館、はだかレヴュウ。いるはずが無い。女子大の校庭のあさましい垣のぞきをしたり、ミス何とかの美人競争の会場にかけつけたり、映画のニューフェースとやらの試験場に・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・十八になって、向島の待合の下女をつとめ、そこの常客である新派の爺さん役者をだまそうとして、かえってだまされ、恥ずかしさのあまり、ナフタリンを食べて、死んだふりをして見せた。待合から、ひまを出されて、五年ぶりで生家へ帰った。生家では、三年まえ・・・ 太宰治 「古典風」
・・・という待合に行き、スズメという鶴よりも二つ三つ年上の芸者にもてた。それから、飲食店閉鎖の命令の出る直前に、もういちど、上役のお供で「さくら」に行き、スズメに逢った。「閉鎖になっても、この家へおいでになって私を呼んで下さったら、いつでも逢・・・ 太宰治 「犯人」
・・・美しい草花、雑誌店、新刊の書、角を曲がると賑やかな寄席、待合、三味線の音、仇めいた女の声、あのころは楽しかった。恋した女が仲町にいて、よく遊びに行った。丸顔のかわいい娘で、今でも恋しい。この身は田舎の豪家の若旦那で、金には不自由を感じなかっ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 板囲いの待合所に入ろうとして、男はまたその前に兼ねて見知り越しの女学生の立っているのをめざとくも見た。 肉づきのいい、頬の桃色の、輪郭の丸い、それはかわいい娘だ。はでな縞物に、海老茶の袴をはいて、右手に女持ちの細い蝙蝠傘、左の手に・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・函館の連絡船待合所に憐れな妙齢の狂女が居て、はじめはボーイに白葡萄酒を命じたりしていたが、だんだんに暴れ出して窓枠の盆栽の蘭の葉を引っぱったりして附添いの親爺を困らせた。それからしゃがれた声で早口に罵りはじめ、同室の婦人を指しては激烈に挑戦・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・人来り人去っていつまでも待合の隅に居残るは吾等のみなるぞつまらなき。ようやく十二時となりて、プラットフォームに出でんとすればこの次のなりとてつきかえされし、重ね/\の失敗なりける。ようやくにして新橋行のに乗り込む。客車狭くして腰掛のうす汚き・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 宮の下で下りて少時待っているうちに、次の箱根町行が来たが、これも満員で座席がないらしいので躊躇していたら、待合所の乗客係が気を利かして居合わせたハイヤーを別に仕立ててバス代用に提供してくれた。のろい人間もたまに得をすることがあるのであ・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
出典:青空文庫