・・・男もこれほど女の赤心が眼の前へ証拠立てられる以上、普通の軽薄な売女同様の観をなして、女の貞節を今まで疑っていたのを後悔したものと見えて、再びもとの夫婦に立ち帰って、病妻の看護に身を委ねたというのがモーパサンの小説の筋ですが、男の疑も好い加減・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているよう・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・と私は後悔したもんだ。私にとっては、スパイを蹴飛ばしたのは悪くはないんだが、監獄にまたぞろ一月を経たぬ中、放り込まれることが善くないんだ。 いいと思うことでも、余り生一本にやるのは考えものだ。損得を考えられなくなるまで追いつめられた奴の・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・固よりいろいろに苦んで居たに違いないけれど、しかしその苦痛の中に前非を後悔するという苦痛のない事はたしかだ。感情的お七に理窟的後悔が起る理由がない。火を付けたのは、しようかせまいかと考えてしたのではなく、恋のためには是非ともしなくてはならぬ・・・ 正岡子規 「恋」
・・・葉子が自分の死の近いことを知った時、自分の二十六年の生涯を顧みて、それは間違いであった、だが、誰の罪だか分らないけれども後悔がある、出来るだけ生きてる中にそれを償わなければならない、という意味の述懐をしている。そして、木村との関係、倉知との・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・実は宮沢が後悔して、僕にあんまり精しく話したもんだから、僕の話もつい精しくなったのだ。跡は端折って話すよ。しかしも一つ具体的に話したい事がある。それはこうなのだ。下女がある晩、お休なさいと云って、隣の間へ引き下がってから、宮沢が寐られないで・・・ 森鴎外 「独身」
・・・女の方が何かをひどく古い事のように言うのは、それを悪い事だったと思って後悔した時に限るようですからね。つまり別に分疏がなくって、「時間」に罪を背負わせるのですね。貴夫人。まあ、感心。男。何が感心です。貴夫人。だって旨く当りました・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・十 安次の小屋が組から建てられることに定ったと知ったとき、勘次は母親をその夜秋三の家へ送ったことを後悔した。しかし、今はもうその方が何方にとっても得策であるに拘らず、強いてそれを打ち壊してまでも自分は自分の博愛を秋三に示さね・・・ 横光利一 「南北」
・・・この詞を、フィンクは相手の話を遮るように云って、そして心のうちでは、また下らないことを云ったなと後悔した。「ええ。わたくしはまだ若うございます。」女はさっぱりと云った。そしてそう云いながら微笑んだらしく思われた。それからこう云った。「そ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ 私はすぐ口をつぐみました。後悔がひどく心を噛み始めました。人を裁くものは自分も裁かれなければならない。私はあの人を少しでもよくしなければならない立場にありながら、あの人に対する自分の悪感のみを表わしたのです。私の悪感は彼をますます悪く・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫