・・・ 謹三は、ハッと後退りに退った。――杉垣の破目へ引込むのに、かさかさと帯の鳴るのが浅間しかったのである。 気咎めに、二日ばかり、手繰り寄せらるる思いをしながら、あえて行くのを憚ったが――また不思議に北国にも日和が続いた――三日めの同・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・と衝と茶の間を抜ける時、襖二間の上を渡って、二階の階子段が緩く架る、拭込んだ大戸棚の前で、入ちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退りに退った。 その茶の室の長火鉢を挟んで、差むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ みんなは、後退りをしました。それでついに、救いに出かけるものはありませんでした。みんなは、口々にこういいました、「これは災難というものだ。人間業では、どうすることもできないことだ。」 彼らは、そういって、あきらめていたのであり・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退りした。くろもじの木の匂が月のあかりといっしょにすうっとさした。 ところがこの豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆を売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒だった。 町の中・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・いまや楢ノ木大学士はそろりそろりと後退りして来た方へ遁げて戻る。その眼はじっと雷竜を見その手はそっと空気を押す。そして雷竜の太い尾がまず見えなくなりその次に山のような胴がかくれおしまい黒い舌を出してび・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・ファゼーロはたじたじ後退りしました。給仕がそばからレッテルのない大きな瓶からいままでみんなの呑んでいた酒を注ごうとしました。わたくしはそこで云いました。「いや、わたしたちはね、酒は呑まないんだから炭酸水でもおくれ。」「炭酸水はありま・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
出典:青空文庫