・・・九月一日初日の夜の演奏はたしか伊太利亜の人ウエルヂの作アイダ四幕であった。徐に序曲の演奏せられる中わたくしはやがて幕の明くのを見た。其の瞬間に経験した奇異なる心況は殆名状することの出来ないほど複雑なものであった。観客の言語服装と舞台の世界と・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・ お民は答えないで、徐に巻煙草をのみはじめた。「僕はお前さんに金を取られる理由はない筈なんだが、一体どういうわけで、そんな事を言うのだ。」「わたしカッフェーをやめて、何もしていないから困っているんです。」「困るなら働きに出れ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・憫な瞽女は倒れ相にしては徐に歩を運ぶ。体がへなへなとして見える。大勢はそこここから仮声を出して揶揄おうとする。こういう果敢ない態度が酷く太十の心を惹いた。大勢はまだ暫くがやがやとして居たが一人の手から白紙に包んだ纏頭が其かしらの婆さんの手に・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・先生は教壇に上り、腰から煙草入を取り出し、徐に一服ふかして、それから講義を始められることなどもあった。私共の三年の時に、ケーベル先生が来られた。先生はその頃もう四十を越えておられ、一見哲学者らしく、前任者とコントラストであった。最初にショー・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・(右手扉の方へ行かんとする時、死あらわれ、徐に垂布を後にはねて戸口に立ちおる。ヴァイオリンは腰に下げ、弓を手に持ちいる。驚きてたじたじと下る主人を、死は徐まあ、何という気味の悪い事だろう。お前の絃の音はあれほど優しゅう聞えたのに、お前の姿を・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・バナナン大将(徐に眼「何じゃ、そうぞうしい。」特務曹長「閣下の御勲功は実に四海を照すのであります。」大将「ふん、それはよろしい。」特務曹長「閣下の御名誉は則ち私共の名誉であります。」大将「うん。それはよろしい。」特務・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・ 爾迦夷、則ち、両翼を開張し、虔しく頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐に座に復し、拝跪して唯願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我等が為に、これを説きたまえ。ただ我等が為に、これを説き給えと。 疾・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・奈良などの建物が古びたのは、あの乾燥した日光と熱とに照りつけられ徐に軽いさらさらした塵と化すといった風の古びかただ。長崎のは湿っぽい。先ず黝ずみ、やがては泥に成るというように感じられる。重い。そして、沈鬱だ。 昨夜深更まで碁を打って・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・そして徐にノオトブックを将校行李の中へしまった。 八月になって、司令部のものもてんでに休暇を取る。師団長は家族を連れて、船小屋の温泉へ立たれた。石田は纏まった休暇を貰わずに、隔日に休むことにしている。 表庭の百日紅に、ぽつぽつ花が咲・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫