・・・「どうも永年御世話様でございました」 彼女がもう二度と来ないということは、村人を寛大な心持にさせた。「せきが出るな――せきの時は食べにくいもんだが、これなら他のものと違ってもつから、ほまちに食いなされ」 麦粉菓子を呉れる者が・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・そしてこれから御そばに召えようとする女達一人一人にかずけるものを遊ばして、『これから又、いろいろ御世話になる事でしょう、二人でね――御気の毒ですけれど、どうぞね――』とおだやかなうるんだ声でおっしゃったって女達は、『どうしてあん・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・ 今日、昭和の御世、日本が東亜の指導者となりつつあるといわれているとき、国の中で首府の真中で、そういう気風が現われているということについて、私たちは何を考えさせられるだろうか。そして、要路の指導者たちはそれに対してどんな方策を考慮してい・・・ 宮本百合子 「私の感想」
・・・妙解院殿の御代に至り、寛永十四年冬島原攻の御供いたし、翌十五年二月二十七日兼田弥一右衛門とともに、御当家攻口の一番乗と名告り、海に臨める城壁の上にて陣亡いたし候。法名を義心英立居士と申候。 某は文禄四年景一が二男に生れ、幼名才助と申候。・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・某申候は、武具と香木との相違は某若輩ながら心得居る、泰勝院殿の御代に、蒲生殿申され候は、細川家には結構なる御道具あまた有之由なれば拝見に罷いずべしとの事なり、さて約束せられし当日に相成り、蒲生殿参られ候に、泰勝院殿は甲冑刀剣弓鎗の類を陳ねて・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・今より後の世には、その比は延喜一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉」。すなわち応永、永享は室町時代の絶頂であり、延喜の御代に比せらるべきものなのである。しかるに我々は、少年時代以来、延喜の御代の讃美を聞いたことはしばしばであったが、応永永・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫