・・・ それは薄曇りの風の弱い冬日であったが、高知市の北から東へかけての一面の稲田は短い刈株を残したままに干上がって、しかもまだ御形も芽を出さず、落寞として霜枯れた冬田の上にはうすら寒い微風が少しの弛張もなく流れていた。そうした茫漠たる冬田の・・・ 寺田寅彦 「鴫突き」
・・・汽車に乗ればやがて斧鉞のあとなき原始林も見られ、また野草の花の微風にそよぐ牧場も見られる。雪渓に高山植物を摘み、火口原の砂漠に矮草の標本を収めることも可能である。 同種の植物の分化の著しいことも相当なものである。夏休みに信州の高原に来て・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・青蚊帳に微風がそよいで、今日も暑そうであったが、ここは山の庵にでもいるような気分であった。お絹はもう長いあいだ独身で通してきて、大阪へ行っている大きな子息に子供があるくらいだし、すっかり色の褪せた、おひろも、辰之助の話では、誰れかの持物にな・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・石榴の花と百日紅とは燃えるような強い色彩を午後の炎天に輝し、眠むそうな薄色の合歓の花はぼやけた紅の刷毛をば植込みの蔭なる夕方の微風にゆすぶっている。単調な蝉の歌。とぎれとぎれの風鈴の音――自分はまだ何処へも行こうという心持にはならずにいる。・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・満園ノ奇香微風ニ動クハ菟裘ノ薔薇ヲ栽ルナリ。ソノ清幽ノ情景幾ンド画図モ描ク能ハズ。文詩モ写ス能ハザル者アリ。シカシテ遊客寥々トシテ尽日舟車ノ影ヲ見ザルハ何ゾヤ。」およそ水村の風光初夏の時節に至って最佳なる所以のものは、依々たる楊柳と萋々たる・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・模様があまり細か過ぎるので一寸見ると只不規則の漣れんいが、肌に答えぬ程の微風に、数え難き皺を寄する如くである。花か蔦か或は葉か、所々が劇しく光線を反射して余所よりも際立ちて視線を襲うのは昔し象嵌のあった名残でもあろう。猶内側へ這入ると延板の・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 木の葉をわたる微風のような深谷の気配が廊下に感じられた。彼はやはり静かに立ち上がると深谷の跡をつけた。 廊下に片っ方の眼だけ出すと、深谷が便所のほうへ足音もなく駆けてゆく後ろ姿が見えた。「ハテナ。やっぱり下痢かな」 と思う・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・今度は葉隠れをやめて、森の木の影の微風に揺らるる上を踏んで行くという趣向を考えたが、遂に句にならぬので、とうとう森の中の小道へ這入り込んだ。そうすると杉の枝が天を蔽うて居るので、月の光は点のように外に漏れぬから、暗い道ではあるが、忽ち杉の木・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・蕪村集中にその例を求むれば鶯の鳴くや小き口あけてあぢきなや椿落ち埋む庭たつみ痩臑の毛に微風あり衣がへ月に対す君に投網の水煙夏川をこす嬉しさよ手に草履鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門夕風や水青鷺の脛を打つ点滴・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 十五六から二十近くまでの娘の心と云うものはまるで張りきった絃の様にささやかな物にふれられてもすぐ響き、微風にさえ空鳴りがするほどで、涙もろい、思いやりの深い心を持って居るんです。 この時代になれば、どんな幸福な家にある娘でも、何と・・・ 宮本百合子 「現今の少女小説について」
出典:青空文庫