・・・ 五月十二日 心細いことを書いている中にお露が来たので、昨夜は書き続きの本文に取りかからなかった。さて―― もしお政が気の勝ている女ならば、自分がその夜三円持て母を尋ねると言えば、「質屋から持って来たお金なんか厭だと被仰った・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 母も心細いので山家の里に時々帰えるのが何よりの楽しみ、朝早く起きて、淋しい士族屋敷の杉垣ばかり並んだ中をとぼとぼと歩るきだす時の心持はなんとも言えませんでした。山路三里は子供には少し難儀で初めのうちこそ母よりも先に勇ましく飛んだり跳ね・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・次代を背負う青年がただ娘たちの好みに引きずられるだけでは心細い。彼女たちの好みにまかせておれば、スマートな、物わかりのいい、社会的技能のあるような青年がふえても、深みと、敦みのある理想主義の青年などは減っていきそうに見える。貧困とたたかって・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・其時自分は目を細くして幾度となく若葉の臭を嗅いで、寂しいとも心細いとも名のつけようのない――まあ病人のように弱い気分になった。半生の間の歓しいや哀しいが胸の中に浮んで来た。あの長い漂泊の苦痛を考えると、よく自分のようなものが斯うして今日まで・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・彼処に一人食客がいた事は、戸川君も一度書いた事があるが、何を為そうとするでもないような、心細い人を世話して、一緒に飯を分けて食うというような処が北村君にはあった。或る日、私が訪ねて行くと、結婚の問題で考えに悩んで、北村君の処へ相談に来ている・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・あのころは、心細い夜がつづいた。どうしようかと、さんざ迷った。自分で勝手に、自分に約束して、いまさら、それを破れず、東京へ飛んで帰りたくても、何かそれは破戒のような気がして、峠のうえで、途方に暮れた。甲府へ降りようと思った。甲府なら、東京よ・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・少し、あやしくなって来た。心細い。ああ、僕の部屋の机の上に、高木先生の、あの本が載せてあるんだがなあ、と思っても、いまさら、それを取りに行って来るわけにもゆくまい。あの本には、なんでも皆、書かれて在るんだけれど、いまは泣きたくなって、舌もつ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ それでこの書物の内容も結局はモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝えるのだから、更に一層アインシュタインから遠くなってしまう、甚だ心細い訳である。しかし結局「人」の真相も相対性のものかもしれないから、もしそうだとする・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・始めての他郷の空で、某病院の二階のゴワゴワする寝台に寝ながら窓の桜の朧月を見た時はさすがに心細いと思った。ちょうど二学期の試験のすぐ前であったが、忙しい中から同郷の友達等が入り代り見舞に来てくれ、みんな足しない身銭を切って菓子だの果物だのと・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ たまたま鐘の声を耳にする時、わたくしは何の理由もなく、むかしの人々と同じような心持で、鐘の声を聴く最後の一人ではないかというような心細い気がしてならない……。昭和十一年三月 永井荷風 「鐘の声」
出典:青空文庫