・・・ それも心細く、その言う処を確めよう、先刻に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処を安堵せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試た。 人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 橋は心覚えのある石橋の巌組である。気が着けば、あの、かくれ滝の音は遠くどうどうと鳴って、風のごとくに響くが、掠れるほどの糸の音も乱れず、唇を合すばかりの唄も遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚覗かれた――と思う。……そのまま忍寄って、密とその幕を引なぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め込になっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・晩に見た心覚えでは、この間に、板戸があって、一枚開いていたように思ったんだが、それが影もなかった。思いちがいなんだろう。 山霧の冷いのが――すぐ外は崖の森だし――窓から、隙間から、立て籠むと見えて、薄い靄のようなものが、敷居に立って、そ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ある謡曲の中の一くさりが胸に浮んで来ると、彼女は心覚えの文句を辿り辿り長く声を引いて、時には耳を澄まして自分の嘯くような声に聞き入って、秋の夜の更けることも忘れた。 寝ぼけたような鶏の声がした。「ホウ、鶏が鳴くげな。鶏も眠られないと・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・このつかまえにくい頭としっぽをつかまえようというのではないが、世間にうとい一学究の書斎のガラス戸の中からながめたこの不思議な現象のスケッチを心覚えに書きとめておこうというのである。 ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・ 雑記帳の終わりのページに書き止めてある心覚えの過去帳をあけて見るとごく身近いものだけでも、故人となったものがもう十余人になる。そのうちで半分は自分より年下の者である。これらの人々の追憶をいつかは書いておきたい気がする、しかしそれを一々・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・私の心覚えのある姓名の人であった。 洋服を着、何心なく来かかるその男を見ると、赤い着物の気の違った女の子は、いきなり腕をからみ合って居た私を突のけて、男の方へかけて行った。そして、手を執り、首をかしげて、頻りに何か頼んで居る。何処へ行く・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・ 先の金を返さないうちは、お金はどうせああなのだと云って、栄蔵は、もう東京の話はせず、早速明日から、山岸の方へ行って見なければならんと、川窪からもらって来た心覚えの書きつけだの、馬場のところへ行って相談しなければならない事などを書きとめ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫