・・・ 魔を除け、死神を払う禁厭であろう、明神の御手洗の水を掬って、雫ばかり宗吉の頭髪を濡らしたが、「……息災、延命、息災延命、学問、学校、心願成就。」 と、手よりも濡れた瞳を閉じて、頸白く、御堂をば伏拝み、「一口めしあがれ、……・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・お通の心は世に亡き母の今もその身とともに在して、幼少のみぎりにおけるが如くその心願を母に請えば、必ず肯かるべしと信ずるなり。 さりながらいかにせむ、お通は遂に乞食僧の犠牲にならざるべからざる由老媼の口より宣告されぬ。 前日、黒壁に賁・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・省作が永く眼を煩った時などには、母は不動尊に塩物断ちの心願までして心配したのだ。ことに父なきあとの一人の母、それだから省作はもう母にかけてはばかに気が弱い。のみならず省作は天性あまり強く我を張る質でない。今母にこう言いつめられると、それでは・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 殊にお掛屋の株を買って多年の心願の一端が協ってからは木剣、刺股、袖搦を玄関に飾って威儀堂々と構えて軒並の町家を下目に見ていた。世間並のお世辞上手な利口者なら町内の交際ぐらいは格別辛くも思わないはずだが、毎年の元旦に町名主の玄関で叩頭を・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ほど二人は内密話しながら露繁き田道をたどりしやも知れねど吉次がこのごろの胸はそれどころにあらず、軍夫となりてかの地に渡り一かせぎ大きくもうけて帰り、同じ油を売るならば資本をおろして一構えの店を出したき心願、少し偏屈な男ゆえかかる場合に相談相・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・お熊は何か心願の筋があるとやらにて、二三の花魁の代参を兼ね、浅草の観世音へ朝参りに行ッてしまッた。善吉のてれ加減、わずかに溜息をつき得るのみである。「吉里さん、いかがです。一杯受けてもらいたいものですな。こうして飲んでいたッて――一人で・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫